弐拾/
彼は紫の髪を掻き上げ、一歩踏み出した。
「アタシを此処から出してくれたのはダレ?」
霊峰の名に相応しい静謐な空気をものともせず――或いは押しつぶすように、また一歩踏み出す。
誰も何も言えなかった。動くことすら出来なかった。
つうと汗が垂れる音が今にも聞こえそうだ、と比乃は思った。
其処に立っているモノは、圧倒的な力でこの場を支配している。
それが理解出来るから、誰も動けない。
そもそも何か言おうにも、口を開けば肺が焼かれそうで。動こうにも躰が軋んで動けない。
「時越えの…神子…」
鹿目が掠れた声で呟いた。
――純なる世界たる黒と白の化身・伍の世界・肆の翼・参の大地・弐の宝・壱の唄
(あれが封印を解く言霊――)
何となく解った。
先程の戦闘で、子津に意識を傾けていた虎鉄が気を緩めた瞬間を、黒豹は見逃さなかった。
一瞬の出来事。一瞬で、彼を封じていた印はあっさりと解かれた。
「もう…喋ってくれないと判らないんだけど…ねえ、ダレ?」
再度繰り返された言葉に、はっと気付く。
彼は呼び出した人物を認識していない。それは、この場の誰もが召喚者になれるということではないか。
(なら…!)
鋭く息を吸って、叫んだ。
「僕だ…!」
「!」
「アラ、坊やが?」
振り向いて見下ろされた。
(――ッ!!)
その瞬間、圧倒的な威圧感が躰を覆った。
彼の意識が自分一人に向けられているとう事実に、目眩がしそうな程躰を締め付けられる。
心臓が一つ脈打つだけで、どうしようもなく汗が出る。
(駄目だ…圧倒されたら…僕の負けだ)
無い唾を飲み込む。喉は言うまでもなくカラカラに干上がっていた。
(僕がやった。僕が貴方を比菜から出した)
心中で暗示を掛け、もう一度、唾を飲み込んだ。
ごくり。
「そう…僕が喚んだ」
自分で納得するように繰り返す比乃を、彼は目を細くして見つめる。
少しの間が空いて、その神子は口を開いた。
「ンフフ…ありがとう。お礼を言うわ」
静かに歩み寄る。
シャラシャラと音を立てながら近寄ってくる彼を呆然と見つめ、ふと柔らかい感触を頬に感じた。
そして瞬間的に拡がる膨大な――というだけでは収まりきらない程の霊力。
其処で初めて、彼が頬に口付けたと悟る。
拡がる力にぞくりと恐怖に震える背筋。直後、それは波のようにすっと消えていったが。
(失敗した…!)
比乃を中心に収束する力に、黒豹はそう悟った。
神子の予想以上の膨大な力に放心していた自分を悔やむ。彼は比乃を『喚んだ人物』として認識してしまった。
(あかん…もう認識は覆せん)
神子が召喚者を認める。それは契約の義だ。
何が何でもそれだけはあってはならなかったというのに。
こうなってしまった以上、彼を取り戻すために残っている方法は一つしかない。
どう考えても穏便に事は済まない。
元より済ます気も無かったが、楽を出来るに越したことはない――もうそんな悠長な事は言っていられなさそうだが。
(全力を…この瞬間に充てんと)
結果、朽ち果てても良いのだ。破壊した世界に自分が居る必要は無い。
だから少々手荒でも、手に入れないと。
「子津!」
――躰に入り込んだら厄介だ!早く!神子を奪え!
「…了解っす」
子津は低く答える。言葉にしなかった部分もちゃんと読みとった上での了解だ。
そして先程から構成されたままの水の刀を振り上げ、比乃に向けて疾った。
「氷刃・飛翔・千片の欠片 水刃・滑走・千粒の塊!」
飛び来る氷の刃と襲い来る水の塊。
「嘘…!」
比乃が焦ったように叫ぶ。
それらを一瞥して、神子は呆れた口調で言った。
「んん…まだ力が荒いわ…そんなんじゃアタシ達には届かなくってよ」
宣言通り神子に到達する寸前で、攻撃は全て消滅した。
「な…っ!?」
「痺れるほど美しい攻撃じゃなきゃ…駄・目」
にこりと、唇に指を当てながら微笑んだ。
圧倒的な力だった。
それだけ言うと、彼は何事もなかったかのように比乃の方へ向き直った。
「アタシの名前は紅印って呼んで頂戴」
「え…?」
「時越えの神子なんて色気のない呼び方、好きじゃないの。紅印って呼んで」
紅印は楽しげに片目を瞑って見せた。
「さて坊やは何がお望み?」
「望み…?」
表情を変えず唐突に問い掛けた。
突然の話題変換に比乃がついていけてないとわかったのか、今度は幾らか言葉を付け足して、紅印は言った。
「アタシを喚んだってことは、何かしたい事があるんじゃなくって?」
「したい…事」
それは望み。
望んでいたことは、前は一つだけだった。
『比菜の病を無事に治すこと』。少し経って、それは『魔物を安全に取り出す』に替わった。
でもそれはたった今叶ったのだ。比菜の中に居た魔物はこうして出てきた。
そして思う。
(これで比菜は自由になったんだ…)
ふと力が抜けた。
幾分軽くなった心境で考える――では、今は?
「分から…ない」
「あら…どうして?」
心底意外そうに紅印は声を発する。
それに対し封印を解いたのは自分ではないから、と返してしまいたかった。
けれどその発言で紅印――神子が、向こう側についてしまったら一大事である。
(何か答えないと拙いのかな…)
何か他に案は――。
「そうねぇ…あのぼうやを殺すってのはどうかしら?ほら、攻撃してくるわよ」
「え?」
視界に、脇差しが飛び込んできた。
「――!!」
「チッ…素早いっすね…」
慌てて飛び退さると、脇差しの先で、子津が折った膝を地に着けるところだった。
その脇差しを見れば僅かに赤く染まっていた。同時に、ぴりりと痺れる右腕。
(斬られた!)
思わず押さえた二の腕に、ぬるりとした感触。
「神子。封印を解いたのは僕らだ、従え」
子津は立ち上がり、紅印に脇差しを突きつけた。
刃先は、ぴたりと紅印の喉元に固定されている。
「…人の話を聴いていて?」
それを見た紅印は、眉を顰めた。
そして彼はゆっくりと子津に手を伸ばす。
「アタシの事神子って呼ぶ子は、嫌いって言ったでしょう」
子津が木の葉のように吹き飛ばされた。
「ぐっ…がっ…!」
派手な音を立てて背中から着地した。息が詰まり、くぐもった声が漏れる。
咄嗟のことで受け身を取ることも出来ず、満身創痍の体で立ち上がることもままならない。
(畜生…ッ)
「子津!」
黒豹が駆け寄る。
「阿呆ちゃうか子津?お前独りやったら何も出来んことぐらい…解っとんのやろ?」
「……」
沈黙は肯定の合図だ。ぎりりと奥歯を噛み締める。
そうだ、解っている。決して聖霊一人で倒せる相手だとは思っていない。
「安心せい子津。何のために二人で来たと思っとる」
ああ、その言葉がなんと力強く思えたか。
「大…丈夫、っす…」
「立て。子津」
引かれた腕に従って躰を起こす。
そっと耳打ちされ、それに頷き返して、黒豹から離れた。
「風渦巻く、対象を鳥と見立てん」
右手を握りしめた。
(次――)
「風渦巻く、草場を忍び寄るは風の臣下、」
視線を巡らせば、黒豹が比乃に向かって、起こした風を放っているところだった。
「一騎打ちといこうやないか、比乃!」
「望む…ところだ…!」
黒豹の風を消して、比乃が新しい風を放つ。
黒豹が地に手をついて何事か囁けば、迫っていた風は眼前で隆起した地面に阻まれた。
「辻風・蛇の如きに這わんとす!」
呻る風が比乃を襲う。
「疾風・鳶の如くに滑空せん!」
上空からの鋭い風の刃が、地を這っていた風を縫い止め、消滅させた。
「天の涙・風舞い・燕雀 水は風の母!」
「燕雀は風の使者 地の――」
「重ね唄!使わしたるは風の神・天に属するは風」
「あ…っ!」
言霊を返す前に、また言霊を放たれた。
比乃の力ではこれ以上速く強い言霊を放つ術はもう無かった。
(せめて精霊だけでも動かせれば…!)
右腕を真っ直ぐ伸ばす。
そして掌に風が集まっている様子を思い浮かべ、思い切り振るった。
「――!」
轟、と風が呻り、飛び出す黒豹の前に横薙ぎの突風が吹いた。
「はッ…!子供騙しが通用すると思っとんのか!」
「えっ」
突風が届くか否かという瞬間、高く跳躍すると共に上空から風を一筋。
鋭く尖ったその風は、突風をいとも簡単に斬って消滅させる。
微風が漂う中、着地した黒豹は再び地を蹴った。
術の速さも、威力も桁違いだった。
眼前には先程滅しきれなかった風と水が迫っている。
(まにあわな――)
「風は、静かに吹く方が美しいと思わなくて?」
シュ、と音がした。
「チィ…ッ!」
特攻のため次に踏み出そうとしていた右脚を着かず、左脚を風を纏い跳ね上げた。
迫り来る風に押されるように、黒豹が元の進行方向とは逆向きに吹っ飛ぶ。
人一人が墜落する鈍い音。
「あ…ありがとう、紅印さん」
「やだ、別に良いのよ。それより、あれは良くって?」
「え――」
「そこから動けば比菜を殺すよ、比乃」
「――!!」
紅印が指し示した方向に、比菜。
その喉元に脇差しを押しつける、子津の姿。
「比菜ァ!」
「其処を動くな!」
二度目の忠告にぴたりと動きを止めた。
それを見て、得たりとばかりに子津が笑う。
「其処を一歩でも動いたら…刀を滑らすっすよ」
牽制のようにつと刃を滑らせば、軌跡に赤い線が出来た。
「ひ…比菜を離せ…!」
「良いっすよ…神子を、此方に返してくれるなら」
「そんな…!」
「あのコ、取り返せばイイの?」
「…!」
神子が比菜を指さす。
「じゃあアタシが手伝ってあげる。アタシの力を使えばいいのよ」
それはあまりにも甘美な誘いだった。
「ち…か、ら」
「そう、力」
そしてにこりと微笑んだ。
(比菜…を、助け…る)
唯一の道が見えて、焦っていた心が落ち着いた。
――何を迷うことがあるだろう。
比菜のためなら自分の命など惜しくなんてちっとも無いのだ。元より方法なんて、ひとつしか無い。
力を請うことは、恥じゃない。
「使う…とても、欲しい」
心から、願う。
「そう。アタシの力を欲しいなら、唄って頂戴。契約の歌を」
「分かった」
「但し。それを望むなら…死ぬまでアタシを躰で飼うことが条件」
何を怖がることがあるだろう。
それが比菜を救うことになるのなら、何でも。
「…解ってる」
「覚悟は出来ていて?」
躰に魔物を飼えば、魔物に躰を侵されるかもしれない。躰が冒されるかもしれない。そして争いに巻き込まれることも。
その全てを覚悟した上で、理解した上で、ひとつ頷く。
「大丈夫。」
その返事に、紅印の笑みが深くなった。
「ンフ…男に二言は無いわね?さあ、灰色の世界の歌を唄って頂戴」
「…灰色の…歌…?」
当然のように紅印は言う。お前はそれを知っているはずだと。
「そう、灰色の世界の住人が創った歌――『怖ろしい化け物』を封じた歌を」
――灰色の世界の住人は世界が滅ぼされることを畏れ、
多大な犠牲を出しながらもそれを封印しました
紅印の瞳に真っ直ぐ射抜かれる。
その黄金の瞳で思い出す、緩やかな旋律。
(世界の、封印の歌だ)
知らない、けれど酷く懐かしい旋律を聴いて、自然とそう思う。
「でも…!何もこんなときに…っ!」
歌を唄えだなんて。こんな時に。こんな切羽詰まった状況で。
そう反論を唱えながらも、それが正しい有り様だと、理解している自分が居る。
それが紅印にも通じたのか、
「今だから唄うのよ。怖がらないで。大丈夫、世界もちゃんと貴方の歌に反応するわ」
諭すような、というよりも確認するような口調で比乃に言う。
「――貴方は特別な児どもなのだから」
「とく…べつ…?」
「あなたは神の児…白でも黒でも、灰色でもない」
「え――?」
脳裏に浮かぶ、自らを神の児と称した女性。
神の児とは、誰であったのだろうか。
「ほら唄って。もう時間は無くってよ」
疑問はしかし声に出されることはなく。
「でも…」
「目を閉じて。心を、空にして」
言われて、ゆっくりと目を閉じる。暗闇の中、ゆるやかに頭を流れ出す歌。
知らない歌だ。けれど自然に思い浮かぶ歌の通りに旋律を静かに紡いだ。
唄いながら思う――同じ歌を唄っていた彼女を。
世界の歌をずっと唄い続けていたのを知っている。今も昔もずっと唄っていた。
それを、自分は側で見てきたかのように知っている。
その歌に呼応するように、精霊がふわりと円を描くように周りを囲んだ。
風が。水が。大地が。焔が。比乃の周りを踊るように。
「あン…!ちょっと苦しいけど…坊やは同じ匂いがするから…すぐ躰に馴染めそう」
紅印は苦しげな表情を浮かべながら、比乃の躰を抱きしめた。
すると、接した部分から徐々に比乃と彼の躰が融合し始める。
何かが自分を押しのけて入り込んでくるのを感じ、軽く目眩。
それでも唄い続ける。終わりのない歌を唄い続ける。
「それじゃあまたいつか」
ずるりと音を立てて完全に紅印の姿が消えた。
自分の中に、何かが居て、動く感触。
『心の中を空にしてちょうだい。アタシはアナタの躰の一部』
頭に響く声の通りに心を空にする。
もう一人の存在を、自分の躰の中に感じ取る。
彼は、僕の、躰の、一部だ。
「―――、」
すっと急速に違和感が消えた。
そして自分の中に膨大な力が溢れるのを感じる。
(ああ――)
溢れる力と共に幾つもの映像が頭を過ぎった。
ある一つの映像がやけに視界をちらつく。それは天命だから仕方のない事なのに。
ドンという鈍い音に、その映像から目を逸らした。
戻ってきた視界に映る、子津の姿。
「くそっ…!此処まできたのにどうして…っ!」
震える手で地面を殴りつける。
この日のために気が遠くなるほどの長い時間をかけて準備をしたのに。
失敗するなんて考えていなかった。これからどうすればいいのか判らない。
「仕方ない…」
呆然とする子津の横で、黒豹は懐からから黒塗りの脇差しを取り出した。
闇色の刀身が煌めく。
「躰切り裂いて神子を取り出すまでや!」
疾風の如く駆けた。
誰もその速度に反応できず、言葉を理解して止めようとしたときにはもう手遅れだった。
(――…)
振り翳す刀は酷くゆっくりと見えた。
「死ねぇええっ!」
「それはさせないわ」
「…!」
「――あ…」
静かな女性の声が響く。
静寂の中黒豹に向かって歩むは、漆黒の髪に緋色の装束。
元から其処に存在していたかのような自然さで、彼女は悠然と歩く。
夜摩狐は、彼らから少し離れた場所で止まると妖艶に微笑んだ。
「この均衡を保っていた世界に害なす者…私が外の世界に連れていってあげる。滅びても尚存在し続ける世界に」
凛とした声に、やはり其処に居る誰も、反応出来る者は居なくて。
「…どちらさんで?」
半刻だったかもしれないし、もっと長い時間だったかもしれない。
いち早く我に返った黒豹が、降って湧いた不審者に尋ねる。
彼女は黒豹の問いに淀みなく答えを返した。
「私は神子と同一の存在…時に神と呼ばれ、時に創造主とも呼ばれたもの」
そう言って瞳を伏せる。
逡巡したかのように暫く閉じていた眼をゆるゆると開くと、
「そうね…言うなれば、私は神の児であり…この世界自身でもある」
続きを、口にした。
「そんなハッタリが効くと思って…」
当然、黒豹はそれが聖霊の戯言だと思った。
別にこういう世界に身を置いていれば、そういった聖霊に遭遇することも多々あるし、元居た世界にはそれこそ五万と存在した。
だから、何をしでかすつもりかは知らないが、時間稼ぎにもなりはしない、と。
黒豹はそう高を括っていた。
「あら、」
だから、その直後に起きることは予想すらできていなかった。
彼女のは意外そうな反応を示すも、すぐまた微笑みに切り替えた。
「はったりじゃ無いわ。そうね…貴方も自分で見れば信じるでしょう…?」
ずるり、と地面が溶けた。
それは穴に泥が流れ込むように、ゆっくりと陥没する地面。
その中央にいたのは。
「な――ッ?」
「大丈夫よ…私も一緒に行ってあげるもの。無である世界の外側へ」
地面と同じように溶けだした夜摩狐は、黒豹の腕に戒めのように絡みついた。
また彼女の別の部分は子津の元に。
「貴方は可哀想な子。私でも世界の外に連れて行くことは出来ないから…此処でお別れだわ」
「な…何…を…」
「次に出合うときは、どうか幸福であることを」
溶けだした彼女の一部が顔をかすめた途端、子津が霞のように掻き消えた。
そして陥没する地面に呼応するように周囲は波立ち、随分深くなった穴を覆い始めた。
「待て…ちょっ…」
「さようなら、弱き灰色の住人達」
こぽっと一つ泡を残して、地面はまた何事もなかったかのように、元に戻った。
050917.
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拾玖
終