拾陸/
草を踏みしめる。息が切れる。斜面を枝を掴みながら登りきる。
袂には分厚い紙の感触。
掌に収まる大きさの札は、先程の端色の瞳をした少女が手にしていたものだ。
片面には華やかな絵が描かれており、最上部に『THE CHARIOT』の文字。
何時の間に懐に仕込んだのだろうか。気付けば既に入っていた札。
ようやく斜面が緩くなったところで一度脚を止め、札を取り出した。
(霊力…みたいなのがまとわりついてる)
微かに感じる誰かの霊力。それが札に織り込まれているのが分かった。
ふと顔を上げる。
「 」
唄がきこえた。
風の声に微かに混じる旋律。ともすれば聞き逃してしまいそうな。
「何処から…?」
聞き覚えのあるようで、しかし全く知らないその唄。
ふらりと、引き寄せられるかのように脚が唄の聞こえる方向へ向いた。
「あら、」
止まる旋律。
草を掻き分ければ、少し開けたところに出た。
その中央、まるで舞台のように据えられた切り株の上に、唄い主は居た。
真白の上衣に緋色の袴。漆黒の髪は、脇を緩く束ね、残りは背中に流されている。
此方に向けられた笑顔を見て、やはり何処かで見たことがあるようだと思った。
「ようやく来てくれたのね…。初めまして、比乃君」
「!」
にこりと微笑んだ彼女の口から出た、自らの名前に驚く。
初めて会う筈なのにどうして名前を知っているのだろう。
疑問が顔に出ていたのか、くすりと笑って、女性は答を口にした。
「世界が争っていたずっと昔から、君の事はよく知っているわ」
切株に腰かけた女性はそう言ってまた微笑んだ。
その微笑みには、それ以上の問いを許さないという確固とした意志が伺える。
だから話を逸らした。続けようにも言葉が浮かんでこなかったというのもあったが。
「…名前、なんていうの?」
躊躇いがちに小さく訊ねた。
彼女は少しばかり驚愕した表情を浮かべると、一瞬だけ悲しげな表情にすり替え、すぐに微笑んだ。
「そうね…そう、神の児どもとでも言っておきましょう。名前は夜摩狐と申します」
「神の…児ども…?」
「そう、世界を創った神の児」
知らないはずはないけれど、と前置きをして彼女は語り始めた。
「こんな話を聞かせてあげましょう」
――それは遠い昔。此処には全く別の、白の世界と黒の世界がありました
もっともっと昔から二つの世界は交わることなく在り続けていました
ところが、あるとき黒の世界が戦を起こしたのでした
永い永い戦によって乱れた世は、いつしか灰色の世界となりました
灰色の世界は、途切れる時間と不平等の入り交じる混沌の世界でした
そして、そこには少しばかりの希望を源とした力が在りました
交わることのなかった筈の世界は、いつのまにか繋がりを持ってしまいました
白と黒の世界の住人は新しい世界に恐れ、互いの力を寄り併せたモノを創りました
永遠を知る白と黒の世界の力は強大でした
強大すぎて――それは、強大な力で白と黒の世界を滅ぼしてしまったのです
それをみた灰色の世界の住人は世界が滅ぼされることを畏れ、多大な犠牲を出しながらもそれを封印しました
ところが、それを封印した替わりに、人々は力を無くしてしまったのです
永い永い時が過ぎ、灰色の世界はやがて無くした力に替わるものを手にいれました
かつて白と黒の世界が生み出したものと同じ力を手にいれました
「白…と、黒に灰色…?」
「そう、可哀想な世界のお話。崩壊を迎える世界の過去夢」
「過去――?」
話し終えた夜摩狐は先程ちらりと見せた悲しげな表情を浮かべた。
またも一瞬で元の表情に戻すと、何かに気付いたかのように空を仰ぎ、比乃に呼びかけた。
「彼があなたを呼んでるわ」
「彼?」
彼女はそう言ったきり口を閉ざした。
話の脈絡が掴めないままでいると、何かの音が耳に届く。
その音に注意深く耳を傾けてみれば。
――比乃!何処に行ってるのだ!
「…あ…!」
言われて、初めて風に混じるのが声だと気付いた。
呼びかける声は必死で、先から何度も呼びかけているようで。
(なんで気付かなかったんだろう?)
風に乗せて届く声は酷く明瞭だ。聞き逃す事なんて、有り得ないのに。
「それじゃあまたね」
聞こえた声に、振り返る。
しかし既に彼女の姿は無く、静かな木漏れ日の中一人立ち尽くしていた。
探し人にはすぐ出会えた。
「比乃!」
「比乃君…!」
物凄い勢いで飛び込んできたのは凪だ。
凪の躰にそのまま抱きつく。掌の感触は、聖霊に実体が在ることを物語っている。
後ろから、歩いてゆっくりと追いついた鹿目が口を開いた。
「随分遅かったのだ。約束の時間に帰ってこないから…どうしたのかと思った」
「ごめんなさい…途中で、人に遇って」
「――人?」
ぴくり、と眉が跳ねた。
「うん…神職の人の格好で、自分のこと神の児だって言ってた」
その単語に過剰反応した鹿目に、事のあらましを説明する。
「神の児…だと?」
「うん。あと…なんだっけな…あ、物語も聴かせて貰った」
「…?話せ」
言われたとおり、彼女から聴いた話を伝えた。
うろ覚えの部分もありそれは謝ったが、おおよその流れは間違っていないはずだ。
白と黒と灰色の世界の物語。世界の過去だというその、物語。
「世界の物語…ですか」
「過去夢…ね」
ぽつりと凪が呟く。眉を寄せ、困惑した表情だった。
賛同するように同じ表情をした鹿目も口を出す。
「…そんな話、聞いたこと無いのだ。人間の残した文献にも無かった筈だし…
第一聖霊は人間よりも遙かに長い時間ここに存るのだ。それが過去だというなら、僕らが知らないなどありえないのだ」
人間が何十年という短い間でしか生きられないのに比べ、聖霊は半永久的に此処に存在することが出来る。
半永久的と言えど、いつか聖霊は皆等しく消える――それを知っている。まだ消えていく聖霊が居ないだけで。
「じゃあ…これは過去じゃ…?」
「恐らくは。大方、悪戯好きの聖霊の作り話なのだ」
導き出された結論に、少しばかり落胆する。
正直に言えばかなり落胆した。期待していなかったわけではない。
聴き入ってしまった、後に過去だと言われますます信じた話は、実は本物ではなかったのだと。
聖霊の中には悪戯を好むものが多い。現に、比乃も何度か悪戯をされたことがある。
しかしそこは悲しいかな慣れたもので、聖霊の霊力の波長を察知することでようやく悪戯から逃れることができたわけで。
嘘を吐いたり悪戯をつくときの聖霊は、少し霊力の波長が揺らぐ。
だから、そういった類に敏感になりつつある比乃が、それが嘘だと気付かないとは思えない。
「…でも嘘吐いてるような感じじゃなかったし…!」
「隠すのが上手いのだろう」
認めたく無いが故の反論は、あっさりと返された。
それでも逡巡して、再び必死に反論する。
「……でも霊力感じなかったし…そう!どっちかというと人間みたいで」
「――ならば益々胡散臭い話なのだ。只の人間がこの御山の奥に入れると思うか」
「あ…そっか…」
富士では、その御山の霊力を護るため夢見人や護人の社への参道以外は特殊な霊力で溢れている。
所謂結界のためであるが、そのため力のない人間は不用意に立ち入ることが出来ない。
また、最近になって御山の結界を強化したため、ある程度の力しか持たない人間も結界内へ入れなくなった。
つまり普通の人間であるなら尚更、この御山に入り込むことは不可能というわけだ。
(それでも…)
嘘だとはとうてい思えない物語。
何処かで聞いたことのあるような、見たことのあるようなその話に――。
風が慌ただしく吹き去る。
あっという間に、快晴だった空を雲が覆い隠した。
(嵐になるのかな…)
再び意志を持って風が吹き去ったとき、鹿目は顔を歪めて舌打ちをした。
そして苦々しさを浮かべた口調で呼びかけられる。
「比乃。少々面倒なことになったのだ…」
「…どうしたの?」
少しの沈黙。
どうやらそれはとても短い間だったらしいが、僕にはとてつもなく長い時間に思えた。
暫く迷っていたらしい鹿目は、だが諦めたようにそれを言った。
「早急に比菜を移す必要があるのだ…お前も、着いてこい」
その言葉に、何故か酷く嫌な予感がした。
050521.
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