拾肆/
「こん雨ば降らせたんは、きさんっちゃね?」
大雨の中、まるで切り取られたかのように彼には雨が降りかかっていなかった。
霊力の満ちている御山と霊力の混ぜられた雨の中でも、一言一言発する毎に大きな霊力が漏れ出ているのが分かる。
(流石…霊峰の聖霊だけあるなぁ…)
「そや。降らせすぎてもうて、わいも驚いとんのやけど」
油断無く注がれる視線に気付きつつも、あくまでも友好的に見えるよう話しかけた。
まだ、まだ彼らにこの事を気付かれてはいけない。
「術ば制御出来ないんは、そいが紛い物ちゅう証拠やけんね」
「紛い物っすか…よく言ってくれますね」
憎悪の籠もった声音が他方から響く。子津だ。
後方に控えていた子津だったが、猪里の言葉に激昂し黒豹を押しやって前に出た。
相手は子津の姿に瞬間顔色を変えたが、それもすぐ消え去る。
「あなた方に…っ!」
一言叫んで、猪里の袂に掴みかかった。
そして切った言葉を続ける。
「あなた方に…それだけは言われたくない!誰がッ!誰の所為で僕はこの術の…ッ!」
「あかんよ」
黒豹が制す。
しかし子津の言葉は止まらない。
「僕は許せないっす!僕はあなた方を絶対に許せない…例え――ッ」
「子津!」
「黒豹さん――!」
「―― 子津…と黒豹」
「!!」
「チッ…」
あからさまにしまったという顔を浮かべる子津と黒豹。
言霊を術の軸とする術師相手に、自分の名前を容易く明かすのは自殺行為である。
例えば戦いの最中で契約の聖霊の名を知られてしまえば、相手にその名前で聖霊を奪われるからだ。
――術者は契約した聖霊の本来の名を呼ぶことは出来ない
この制約がある限り、どれほど強かろうが紛い物が本物に勝つことは絶対にない。
それを知っていたからこそ黒豹は子津を止めたのだが、
それが、その程度で子津が抑えられるほどの感情ではないことも知っている。
(まあ…ええ)
あちらに知られてしまった名前の分を差し引いても、術的にはまだ此方の方が強制力がある。
純粋な精霊の力で左右される術なんかよりも、人間にとっては此方の方が余程使い勝手が良いのだ。
「仕方ないなあ…」
此処で聖霊が出てくるのはは計算外だった。
仕方がない…が、此処でこの聖霊を撃退しない限り事態は変わることはない。良い方向にも、悪い方向にも。
「きさんら、何の目的でこの山ば入っとうね?」
名前を知って有利になったからなのか、単刀直入に切り込んでくる。間違いなくこれが本題だ。
疑っているからこそ、この問いを投げかけてきた。
此処まで来て用が無いことの方がおかしい。それは十分承知している。
「ちょっと用あってん」
真実に軽く触れるほどの答えを返す。真実から遠い嘘は簡単に見破られる。
まだ賭けは続いているのだ。こちらの負ける可能性は今のところ零に等しいが。
油断無く睨み付けてくる瞳を見続けていれば、不意を喰らった。
「――神子やったら、此処には居ないとよ」
それは唐突すぎた。
唐突すぎて、浮かべてしまった表情を正すことも、繕うことさえも出来なかった。
(失敗した…!)
確信にも似た思いが駆けめぐる。
探るような視線を感じた。何れも聡明である聖霊のことだ、この問いだけで気付いただろう。
御山に入った目的も、標的も。
(いや――)
まだ負けてはいない。成功する可能性は零ではない。
「けどなあ聖霊はん、」
一歩踏み出した。抑えきれない勝ち誇った笑みを顔を俯けることで隠す。
崩すには、どうしたら良いか知っている。どころか今身をもって体験したではないか。
ゆらりと顔を上げる。凶悪な笑みを浮かべながら、その台詞を言った。
「此処におらんなら…聖霊が此処に出てくる必要無いなあ?牽制が、なぜ必要?」
予想もしていなかったのだろう。一瞬だけ、しまったという表情を浮かべた。
すぐに元の無表情に近い表情に戻るが、その一瞬だけで十分だった。
伊達に、嘘と策略の交錯する人間の中で過ごしているわけではない。
「知ったところでどうするん?護人様と、天狗と、聖霊とで構成された結界は容易く破れなか」
負け犬の遠吠えといったところだろうか。
そんな事は今更だろう。自分たちがこの計画にどれ程の時間を費やしてきたと思っているのか。
永く同じ術は脆く、容易く破壊が可能だ。
「ふん…自分たちの力を信じすぎやな。そのうちに痛い目見る」
「黒豹さん、」
「分かってるで。此処で揉め事起こしたないから、今日は退かして頂きますわ」
子津の言葉で我に返る。少しお喋りが過ぎたか。
退却の意を宣言し、一旦言葉を切った後すぐに今度は低い声で呪を唱える。
それが子津の声と重なると、ふわりと心地よい浮遊感が躰を包んだ。
端から見れば、雨が水溜まりが渦を形成し二人を取り巻いている事が分かるだろう。
「待ちぃ…っ!簡単に逃がすとでも思っとうね?」
そしてそれがどういう事態を意味しているのか――聖霊は気付いた。
無造作に雨を掴み引き抜くと、その手には細身の刀が握られていた。
(ああ、水の聖霊か)
水の刀を掲げ、一蹴りで此方に詰め寄る。
しかし振り下ろすその切っ先が届く前に、二人を包んでいた水は初めて重力を思い出したかのように、唐突に崩れ落ちた。
「ほな、またお会いしましょ。次は、御山の上で」
声と共に、残った水の渦が雨に紛れて消えた。
050407.
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