春陽








 風に乗ってやってきた桜花の香りに、ふと目が醒めた。

 閉じていた瞼をゆるゆると持ち上げる。春らしい暖かい陽射しと風を感じながら、いつの間にか寝てしまったらしい。 柱に凭れながらぐっと腕を伸ばせば案の定ぱきりと軽い音が立った。
 腕を下ろして辺りを見回す。しかし目の前には美しく整えられた庭が広がるばかりで求めていたものは探し出せなかった。 その光景に、勝真はまたかと呆れたように目を閉じて溜息を吐いた。決して大きい家ではないがそれなりに広さのある庭を、 彼女は打袴を引きずりながらも歩き回っているのだろう。溜息だって吐かざるを得ない。

「……勝真さん?」

 そんなことを考えながらもう一度息を吐いた瞬間、立ち止まる音と共に、 幼さの残る愛らしい声で小さく名前が呼ばれてゆっくりと目を開いた。 声の主の方を見遣れば、庭の少し離れた場所に立って此方を窺う探し人を見つけた。 視線を下げればやはり打袴の裾は汚れていて、思った通りだと密かに笑みを浮かべる。
 彼女は不思議そうな顔を浮かべた後、ぱたぱたと軽く音を立てながら走り寄ってきて階を駆け上がった。 その勢いのまま勝真の傍に来ると、すとんと簀子縁に座り込んだ。
「寝てたんですか?」
「まあ……少し、な」
「えっ、じゃあもしかして私起こしちゃいました?」
 申し訳なさそうに表情を沈ませた彼女の頭に掌を乗せてくしゃりと掻き混ぜる。
「いや。目は醒めていたから」
「本当に……?」
「……花梨、お前は何を疑っているんだ」
 それでも尚疑いの眼差しを向ける花梨の髪にもう一度触れると、今度は優しく梳っていく。 幾度かその行為を繰り返す内に大人しくなった彼女の額に不意打ちとばかりに口付けた。
「…………?」
 いつもなら此処で飛び上がらんばかりに驚き、ともすれば声まで上げるというのに今日に限って花梨は何の反応も示さない。 不思議に思いもしや寝ているのでは、と俯いた花梨の顔を覗き込もうとして。
「―――桜の香りがする」
 すん、と朽葉色の髪に鼻を近づける。間違いなく彼女からは仄かだがはっきりそれと判る桜の香りがした。 いつもは勝真が好んでいるからと梅花の香を焚いていた筈だが、今日はその香りすら消えてしまうほど強く桜花が香っている。
 梅花の香を纏った彼女を気に入っていた勝真としては、少し面白くない。
「えっ……そ、そんなについてます?」
 彼の考えなど予想もしていないだろう花梨は、その言葉にか慌てた様子で勝真から離れるとがばりと自分の袿に顔を埋めた。 ややあって顔を上げると困ったように首を傾げた。
「おかしいなあ……なんもしてないのに」
「……何かしたのか?」
 花梨の言葉に、思わず龍神の神子として京を走り回っていた彼女の突飛な行動を思い出し眉を顰める。 短い履き物だというのに平気で木に登る。上等な着物が汚れるのも厭わず狭い井戸に入る。 周囲の心配を余所に屋敷から勝手に抜け出す。とまあよくもそれほどやってのけた、と逆に感心してしまうほどだ。
しかし勝真の所作に花梨は勢いよく首を振った。
「今日は本当に何もやってないです!」
「ふーん。今日は、ね」
「あうっ……」
 言葉尻をとらえて揶揄うとしまったといった体で口元を抑えた花梨の様に、軽く笑ってから悪かったと口にして抱き寄せた。
 纏う香りが馴れ親しんだものではないというだけなのに、そんな彼女は何処か新鮮だ。 先程までは下降していた気分も彼女の必死な様子に、桜花の香りがするのは特別な理由があってのことでは無く偶々なのだと知って、 浮上している。我ながら現金なものだと内心呆れながら、花梨の項に鼻を寄せた。
「良い香りだな」
「……あの、桜がもう直ぐ散っちゃうから……ちゃんと見ておこうと思ったんです」
「ああ、庭のか」
 今居る母屋から見ることは叶わないが庭に一本だけ桜の大樹があった。今年の春は激しい嵐が訪れなかったため、 四月の中頃を迎えてもその樹には大輪の桜が見事な花を咲かせていた。 花梨はその桜がとても気に入っているのか足繁く通っていると、彼女付きの古参の女房に入れ知恵されたことも記憶に新しい。
恐らく勝真が眠っていた時間も桜を見に行っていたのだろう。成る程桜が香るのも頷ける話だ。
「それでですね、」
「ん?」
「……いえ、何でもないです。」
 ふるふると首を振って言いかけた言葉を飲み込んだ彼女に、不満そうにしながらも勝真は何も訊ねなかった。 代わりに花梨を閉じこめた腕の力を少しだけ強めて、桜花の香りを楽しむように彼女を抱き込んだ。
「眠っちまいそうだな……」
「本当ですねー」
 のんびりとした口調で会話とも言えないような会話をぽつりぽつりと続ける。その内発する言葉の感覚は長くなり、 やがて消えていった。
 柔らかい春の陽射しに照らされながら、さほど刻を置かずに二人が眠りへと誘われていったのは、言うまでもない。

















(桜の香りの花梨ちゃんが誕生日プレゼントなんです実は。でも彼女は恥ずかしくて言えません)

060418.
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