nothing is more beautiful








 それは書庫から自分の部屋まで通じる廊下の途中、ガラス張りの扉から出てすぐの建物の影にひっそりと咲いていた。

 それは白い花だった。薄暗い中咲くちいさなその白い花は中庭に植えられた種々の花ほど絢爛ではなかったが、 何故か強く心惹かれるものだった。花の名は知らない。少なくとも彼は識らなかったし、 もしかしたら咲いていた場所からして有名な名を持たないそれで、 それならばメイドや執事頭でさえも識らないのかもしれなかった。推測にすぎないのは彼らが庭師に整えられた 中庭と違うそこへ立ち入ることに良い顔をしないからだ。だから訊いたこともなければ きっとこれからも訊ねることはないのだろうと思う。所詮匿われている身である自分と彼らに直接的な主従関係はない。



 
* * *




 花は長い間咲いていた。そして花が未だ褪せていなかったその日、 珍しく屋敷に客人がやってくるようでメイドたちが建物をめかしつけるのに奔走し、 いつもは物静かな執事頭さえも慌ただしく屋敷中を歩き回っていた。勿論ホストであるこの屋敷の主も例外でなく 彼はメイドたちに念入りに身なりを整えさせながら自身はせわしなく書類を捲っていた。
 そんなこの屋敷には珍しい騒がしさを遠目に他人事のように眺めながら書庫へ向かう。 実際、他人事以外の何物でもなかったからだ。
 理由は知らないが(嘘だ。流石に薄々は感づいている)、 この屋敷の主や人間たちは公には明らかになっていないこの幼い所在を、 然るべきときに行われるらしい所謂“お披露目”まではどうしても他人の目に触れさせたくないようで、 だからこういったことがあれば毎回、自室か主の書斎か書庫か(或いは最悪地下の備蓄倉庫)に篭るよう命じられていた。 自室も書斎も退屈窮まりなく(備蓄倉庫なんて以っての外だ)、 生憎とそんなところに缶詰にされるようなマゾヒスト精神など持ち合わせてはいないので やはり毎回大人しく書庫にいることを択ぶ。勿論それは特別な日に限らず、 閉じ込められて退屈な普段から同じように篭ってはいたが。
 書庫は宝の山だ。識らない(そして失った)情報を漁って咀嚼する作業は楽しくてたまらなかった。



 




 居心地の最高によい璧の山は屋敷の片隅にあった。入れば割と広大なそこの壁の一面には、 普段は遮光カーテンの引かれている書庫に不釣り合いな大きな窓が設えられている。 カーテンの隙間から差し込む陽光に視線落とせば目に写るアンティークもかくやというような意匠の凝らされた書架。 そこには真新しい哲学書もあれば、触ったら崩れそうなそれこそ屋敷が構えられた何百年も前から収められているのだろう 黄ばんだ洋皮紙の山までが無造作に無秩序にならんでいる。
 最近は専ら誰も手を付けない乱雑な書架の整理も兼ねて、手当たり次第書物を引っ張り出しては斜め読み或いは没頭して、 分類を(勝手に)決めた棚へと戻す作業を延々続けている。これが案外飽きない。 知識を溜め込む次にこの秩序づける作業は楽しくて好きだった。 時間なら余りあるほど在るので一日の進みが遅かろうが構わなかった。未だ己の消滅には遠い。
 それからごぼう抜きにしたそれが図鑑や百科事典の類であったならあの白い花がないかも探していた。 だがこちらは書架の整理と異なって芳しい成果が上がらない。 ページを捲る度じわりじわりと形容しがたい圧迫感とも焦燥ともいえる感情が喉元を迫り上がってくる。 花はずっと短い時間で枯れるものだと知っていたからはやく見つけたかったのだ。



 




 随分長い間咲いていても、或いはそうであるからこそいつ枯れるかわからず、 毎回今日が最後かも知れないと思いながらその花を目に焼き付けていた。書架を弄っているときもだが、 どうしてこんなにその花に執着しているのか自分でもよくわからない。 気に入っているからだけでは説明のつかないこの固執心は、けれど気分の悪いものではなかった。 今日も客人が訪れるまでにはまだ時間はあるようだったし少しくらいは、と考えて例のガラス戸から外へ足を踏み入れる。

 扉からは死角になる件の花の前には、意外な人物がいた。

「プロイセン……?」
「……おまえなんでこんなところにいるんだ」

 振り返ってばつの悪そうな表情を浮かべた彼の台詞は彼自身にこそ言われるべきものだった。 早く書庫に行ったらどうなんだと目で言ってくる彼は紛うことなくこの屋敷の主で それはすなわちホストという本日最も自由のない種類の人物であることに他ならず、 本来なら今頃メイドたちの着せ替え人形になっているはずである。 そう言われてみればプロイセンの恰好は外向き用の煌びやかなそれではなく多少大人しめな室内着だ。 それでも寂れた場所に全く似つかわしくない恰好をしているのには変わりなくやはりどことなく違和感が拭えない。

「どっちかというと俺よりプロイセンのほうが問われるべきだろう。 こんなところに居ていいのか?今頃メイドたちが捜し回っていそうだけど」
「……そうだろうな」

 そう零しはしたが彼が立ち去る様子は一向になかった。 黙って目線を地面に固定し続ける彼を不思議に思って視線の先を追えば、そこにはあの白い花がちいさく風に揺れていた。 とうとう見つかってしまったという絶望感と見つかったのが彼ならばという根拠のない安堵感で 花のようにくらくらと視界が揺れる。

「もしかして……これ、見に来てたのか」
「ああ。おまえもか?」
「うん」

 半ば確信を持って訊ねれば案の定是と答えが返ってきた。やはり彼はその花をどうこうするつもりはないのだろう。 ゆるゆると息を吐きながらいつのまにか強張っていた肩をすとんと落とすと、 花の傍へ歩を進めプロイセンの横でしゃがみ込んだ。近づいた白い花弁は瑞々しく揺れる。 ふと、此処にいるなら彼は花の名前を知っているのかもしれないと思い立って口を開いた。

「この花の名前知ってるか?」
「いや、知らないな。……で、おまえは?」
「俺も知らない」

 首を横に振ればそうか、とプロイセンは短く答えた。それから何か言おうとしたのか 彼が僅かに身動いだ気配に振り仰いだ瞬間、屋敷の中から複数の乱れた足音と 焦ったように目の前の男を呼ぶメイド達の声が僅かに聞こえた。 ようやく屋敷の主が居ないことに気づいて慌てて捜しに来たようだった。 プロイセンはチッと舌打ちと共に踵を返すと手元の銀の懐中時計を眺めながら早く書庫へ行け、 と言葉を残して屋敷の中に戻っていく。追うように立ち上がって、 それでも名残惜しく思えて一度じっと花を見つめてから、脚を動かした。



 
* * *




 花はその次の日には枯れていた。そこにあったのはただ萎れて茶色くなった花弁を垂らす死んだ花だった。 思えば、あの日プロイセンと見たその花はそれまでよりずっと強く輝かしく美しく咲いていた。 それは自らの死期を悟っていた花の最期の力を振り絞った姿だったのかもしれない。 何故かは解らないが最後に花を見たときが彼と一緒で良かったと思った。

 今にしてみれば不思議だった執着心にも納得がいく。
 あの頃見たすべてのもののなかで、あの花が一番美しかったからだ。