さしのべる手








 唐突に意識が覚醒する。
 変調した真夜中の静謐だった空気と、自分と同じように気づいたエクソシストたちが発する張り詰めた緊張感に、 一瞬金縛りにあったかのように動けなくなり、知らずごくりと唾を飲む。
 シーツの中で先ず左手を軽く握り、次に右手で太股に差してある槌に触れた。 動作が正常に行えることを確認するとゆるゆると息を吐いた。 ラビは音を立てないようにシーツから抜け出し、梁に掛けてあった団服を無造作に羽織った。
 恐らく宿はアクマに囲まれている。 誰ひとりとして同じ部屋に居ない仲間の、誰もがこの事態に気づいて既に臨戦態勢を取っているだろう。 宿の主人の厚意で別々の部屋を取ったことが少しだけ仇となってしまった。 だが、エクソシストたる彼等にとってそれは大した問題ではない。
 ざわざわと濃度が増してゆく殺気の中ゆっくりと深呼吸をしながらカウントする。
 ひとつ。 ふたつ。 みっつ。 よっつ。 いつつ。
そして五つ目を唱えた瞬間、僅かに離れた部屋から轟という激しい破壊音とまばゆい閃光が走った。 アレンのイノセンスが放つ、それは戦闘開始の合図だ。
 アレンが、リナリーが、クロウリーが、ブックマンが、各々のイノセンスを解放しながら部屋から飛び出て来た。 同じタイミングでラビも槌の柄を掴んで叫ぶ。
「伸ッ!」
 ぐんと伸びた槌の柄はラビの体をあっという間にアクマがひしめき合う輪の外側へ運び出した。 あまりの速さと他のエクソシストに気を取られているアクマは、それに気づかない。
 ラビはしてやったりとばかりに唇を舐めると、適度な大きさになった槌をくるりと回す。
「劫火灰燼―――火判!」
 叩きつけるように槌を振り下ろせば、炎が大蛇のようにうねり複数のアクマをひとのみにする。 ようやく背後に敵がいることを理解したアクマたちが振り返り獲物を捕捉する動作を見て、 ラビは再び唇を舐めて不適に笑った。
「来いよ。お前たちの相手は俺さ」
 言い終えた瞬間、応えるようにアクマが襲ってきた。 そのアクマの突進をひらりと躱すと、後ろに隠れていた一体のアクマに向かって槌の柄先を突きつけ言い放つ。
「隠れても無駄さ、伸!」
 伸びた柄は見事に人の形をしたアクマの鳩尾にヒットした。 周囲諸共突き飛ばされてバランスを崩したアクマに、今度は上方から巨大化した槌が迫る。 槌の重さを無視したラビの軽やかな動きに当然アクマたちは追いつけず、次々と壊されていった。
 右から襲い来るアクマには横薙ぎの一振りを。斜め下方から銃口を向けるアクマには叩きつけるように槌を振り下ろし。 集団で迫る複数のアクマは火判で一掃する。そして死角を衝いて背後からやってきたアクマは、 槌の頭部分を前に向けて脇に挟んだ状態で柄を伸ばし突き飛ばす―――筈だった。

「おーおー物騒だねえ」

 アクマのボディのように金属ではない、例えるならば人間の皮膚のように柔らかい何かに触れた感触に、 直ぐさま振り向いて槌を突きつけた。 いつの間にか背後にそして今は目の前に立つ男はそれでも平然と槌の先にある十字の飾りを人差し指でつついている。 触れるなという意味合いを込めて柄を僅かに動かし指を振り払えば、男は両手を上げて肩を竦めた。おお怖い、と口が動く。
「アンタ……誰さ」
「……あれ、覚えてない?」
 そう言われても、おどけたように目を瞠る男の姿は一度として見たことはなかった。 モーニングに包んだ褐色の肌もシルクハットを載せた癖のある髪も綺麗な色の瞳も泣き黒子もやはり記憶には無い。 眉を顰めてみせれば、男はそうかとひとつ肯いた。
「こっちのオレとは初めてだったっけ。じゃ、覚えてねえか」
「だから誰だって訊いてんだろ」
「ごもっとも」
 男はシルクハットを取ると手を胸に当てて言った。

「初めましてエクソシスト。オレはティキ・ミック……ノアの一族だ」

(ノア……!!)
 ごくりと唾を飲み込んだ。緊張で手が痺れている。
 此処で出会うとは思っていなかった。エクソシストや探索部隊がノアらしき敵に大勢殺されたという報告は受けていたが、 まさか中国で遭遇してしまうとは。スペインやルーマニアや、 兎に角ヨーロッパ諸国での話だと思っていたから知らず知らずの内に此方には来ないと安心していたのかも知れない。 油断などしてはいけなかったというのに。
「こんな処まで……何用さ?」
 喉はカラカラに乾いている。ともすれば掠れそうになる声を慎重に発してあくまでも平静を装う。
 ぺろり、と喉と同じように乾く唇を舐めた。
「ま、そう緊張しなさんな」
 図ったとしか思えないようなタイミングに、どきりと心臓が跳ねる。落ち着け。落ち着け。相手はノアだ。 油断してはいけない。落ち着け、落ち着け。心臓が煩い。落ち着け。……畜生。 そう思っている時点でどうしようも無いほど取り乱しているのだろうに。
 増えていくばかりで一向に減らない心拍数と、背中を伝う冷や汗に舌打ちしたい衝動に駆られるのを、 ラビはすんでで抑えた。しかしそれすらも見透かしたようにティキと名乗ったノアは、それは杞憂だと低く嗤う。 その様に思わず舌を打った。
「だから何用だって訊いてるさ!」
「あーもう。あのさ、落ちつけって」
 話が進まないだろうと男はごちる。肩を竦めながら煙草を取り出す仕草すら莫迦にされているようで、苛々は募る。 あまりにも遅く感じられる一挙手一投足に奥歯を強く噛んだ途端またしても絶妙なタイミングで、 男は煙を吐き出しながら喋り始めた。
「一応任務の一環でもあるんだけどさ、今回はちょっと違って」
「任務……?エクソシスト殺し……か?」
「半分当たりだけど、だから今回は違うんだって」
 話聴いてる?と言われてもどう返せば良いか判らず沈黙を続けた。すると男は溜息を吐いて、 任務じゃない方を訊いて欲しかったんだけどなあ、と零した。そして再び口を開く。
「幼気な兎ちゃんを勧誘しにきたわけ」
「……兎?」
「そ、兎」
 男は口の端を上げるとすいと指先を此方に向けた。
「それとも『ラビ』とか『ジュニア』の方が良かった?」
「っ、何で名前……!」
「勧誘しに行く相手の名前くらい知ってるって。まあでもそれはまた今度の話でさ、本題入ってもいい?」
 先程までとは打って変わって真剣さを帯びた男の表情に、ラビもまた背筋を伸ばす。 同時に、どんな状況になっても即座に対応できるように静かに両脚の位置を変えた。柄を掴む手に力が籠もる。
 ゆっくり、それはもう酷くゆるりと、男は言葉を紡ぐ。
「その眼帯の下に、ジュニアは何があるか知ってるわけ?」
 言われた瞬間、条件反射のように咄嗟に左手で眼帯を押さえてしまった。
「……知ってるんか……?」
 何度目だろうか、無いに等しい唾をまたごくりと飲んだ。
 眼帯の下に何があるのかラビ自身も知らなかった。知っているのはブックマンだけで、 当の本人から、来るべき時が来るまで絶対に眼帯を外してはいけないと、その時が来れば自ずと外すことになるだろうと、 そう言い渡されていた。
 勿論ブックマン見習いとしての性で、物心ついたときからつけているこの眼帯の下に興味が湧かなかったと言えば嘘になる。 しかし右眼に手を掛けるたび何故か、これは外すべきではないという思いが沸き上がって結局外すことは出来なかった。
 それを、自分では決して破ることの出来なかった壁の向こう側を、ラビにしてみれば今日初めて出会った、 敵方のノアが知っていると言うのだ。
「知ってるんさね……?」
 抑えられない知的好奇心がどうしようもなく疼く。声が、震えた。
「ああ、知ってるよ。でも知ったら絶対びっくりするね」
「は、早く教えるさ……!」
「駄目。エクソシストには教えてあげない」
 瞬間、目を眇めて口の端を上げる男に、殺意。
出来得る限り最大の自制心をもって衝動を抑え込む。 それでも、突きつけたままだった槌を男の足下に力の限り振り下ろしてしまったのは仕方がないと思った。 男は眉一つすら動かさずその光景を眺め遣っていた。
「知りたかったらおいでよ、ジュニア。今なら大歓迎なんだけど」
「誰が行くかッ!」
「来るよジュニアは。来なきゃいけなくなる……その右目が、ある限り」
 ぴたり、と男の細く長い指先がラビの右眼を指した。

「じゃあなジュニア。良い御返事を期待してるぜ」
 挨拶の代わりかハットを少し持ち上げると、男は呆気なく背を向ける。 彼が景色と同化して消えてゆく間もラビは金縛りに遭ったようにその場から一歩も動けなかった。
 思い浮かぶのは男の確信を含んだ笑み。きっと言葉の通りになるのだと、何故か思った。

















060917.
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