「お前が―――たとはな」

 何もない空間で、その言葉だけが響く。誰の言葉とも知れない。
ただ、どうしようもなく遣る瀬ない想いだけが心に渦巻いているのが解る。

「ああ……本当は―――ない」

 もう一つ、少し遠くから声が聞こえた。先程と同じくフィルタが掛かったように酷く不明瞭な声。 或いは無音というノイズによって途切れがちなそれは、 自分と同じようにこの状況をどうにも変えることの出来ない歯痒さを秘めている。
 そう。自分だ。最初に響いた声は自分のものだった。しかしそれを聞く自分は、 まるで第三者であるようにその場の出来事が遠かった。いや 、  遠   く      な













































「……あ?夢……か」
 呆けたようにそう呟いて、有川将臣は上半身を起こした。
 緩慢な動作で無造作に伸びた前髪を掻き上げる。大きく息を吐いたことで初めて、 悪夢を見た後のように自分の息が乱れていることを知るが、しかし肝心の夢の内容が思い出せない。
 ここ最近は毎晩のように同じ内容の夢ばかり見るようになった。実際は明確に覚えているわけではないから、 断言するには些か弱いものの恐らく、同じ夢だろう。高く広がる碧落、淡々と続く会話、逆光に隠された人影、 ざわざわとした気持ち悪い焦燥感にぐらぐらと揺れる視界。それだけが覚えている共通点だ。 毎晩繰り返されるそれに初めの内は辟易していたがようやく慣れてきた―――と思っていたがそうでもなかったようだ。
 完全に覚醒してしまった意識に二度寝は諦め、汗ばんだ躰を風に当てようと部屋の外に出た。 すると夜も更けて久しいというのに、一つ角を曲がった濡れ縁に誰かが腰掛けていた。既に細くなりつつある月の下でも、 長い髪を持つシルエットのお陰で直ぐに正体が知れた。
「……九郎?」
「将臣か。何だ、どうかしたのか?」
 九郎の言葉に含まれた確認のニュアンスに首を傾げ、ああそうだ彼は耳が良かったのだと思い出した。 僅かな戸を引く音で人が起きてきたことには気付いていたのだろう。自分の考えに納得して将臣は口を開いた。
「俺は……、変な時間に寝たからか目が覚めたってとこ……かな」
「なんだ不養生だな」
 眉をひそめる所作には軽く笑って返した。曖昧な返事に九郎も何も言わない。
 平家の一員として幾つかの戦は経験しているから、どんな時間に寝ようがそれがどんなに短いものであろうが、 熟睡出来る術は身に付いている。怨霊と戦ったことで将臣に戦の経験があることは皆にも知られているし、 在る程度の事情までは話してあるから、変な時間云々は嘘であると九郎は気付いているだろう。 本当に不養生だと考えたか嘘について眉をひそめたかは判らないが、そんな将臣の態度に彼は何も言わなかった。 彼は、他人の心へ必要以上には踏み込んで来ない人間だ。
「九郎は?」
「俺か。俺は……寝付けなかったんだが」
「寝付けなかった?」
 如何にも規則正しい生活をしていそうな九郎の意外な言葉に目を眇める。迷うように語尾を濁しているところも、 フランクに話す彼にしては珍しいと思いながら言葉の続きを黙って待てば、庭に遣っていた視線を将臣に向け、 表情を微笑の形に変えると口を開いた。
「丁度良い。酒でも呑まないか?」
「……えらく突然だな?」
 器用に眉を片方上げてみせれば、九郎は少し肩を落とした。
「やはり、駄目だろうか」
「そんなこと言ってねえだろ。ほれ、もってこいよ」
「あ、ああ……」
 急かすように肩を叩けば寝所とは別の部屋に入っていった。元より誰かと呑むつもりであったのか、 さほど時間を置かずに出てきた彼の手には、瓶子と小さな盃が二つづつあった。一つ受け取れば、 手酌の方がいいだろう?と、早々に九郎は盃を傾け始めた。将臣も肯いて瓶子から酒を注ぐ。揺れる液体が、 この頃にしては珍しく澄んだ色合いをしていることに少し眉をひそめる。未だ栄華を極めていた三年前の平家での酒の席でも、 これほどの上物はなかなかお目にかかれなかった。彼には余程高貴な人間との繋がりがあるらしい。
 と、将臣の疑心に当然気付かぬ様子で、九郎は空を仰ぎながら言葉を紡ぐ。
「肴の月が霞んでいるのが惜しい」
 同じように見上げた夜空には鎌のように薄い月が浮かんでいた。月の終わりも近く豊満さの足りないそれは、 些か役不足感が否めない。加えて季節柄仕方ないことだが夜空は星も霞み甚だ月見には向いていない日だと、 残念そうな九郎を眺めながら、将臣は内心溜息を吐いた。
「桜でもあれば良かったかもな」
「そうだな。……そういえばこの春は桜もじっくりと見なかった。神泉苑では忙しかったしな」
「あー。」
 言われて将臣は思い出す。確かに一行皆で桜咲き乱れる嵐山に赴いたとき、九郎は用事で同行することが出来なかった。 梶原邸に帰り顔を合わせたときに、相当残念そうな顔をされたのも記憶に新しい。そして何故か、 その彼の表情は将臣の心に波紋を投げかける。思わず、口を開いていた。
「嵐山の代わりとはいかないかもしれないが、どっか行くか?」
 だが九郎から芳しい返事は無く、代わりに沈黙が横たわる。
「…………、」
「……なんだよ」
「いや。そう返されるとは、思ってなかった」
 言葉通り呆けた表情で小さく首を横に振ると、彼は続けた。
「だが、どうしてだろうな。その提案はとても嬉しい。外ならぬ将臣の誘いだ、行こう」
「……え」
(―――嬉しい?)
 今度は将臣の方が驚いて言葉を切った。
「短い間だというのに、お前と居ると落ち着くような気がする。ああ、気が同じだからだろうか?」
「……なんだ、そういうことか」
「どうした」
「いやなんでもねぇよ」
(期待して損した)
 そう考えて、はたと気付いた。期待って何だ。一体何を期待していたんだ。 誰に?何を?―――考え始めると止まらなかった。延々と同じ問いを混乱したように繰り返していれば、突然、 九郎の瓶子と盃によって甲高い音が立った。そこでやっと我に返る。思ったより酒が回っていたのか、 本当に混乱していたようだ。深く息を吐いて、将臣も盃を置いた。
「すまない」
「いや……頃合いだろ。そろそろお開きにすっか」
「そうだな。明日も早いだろうから」
 腰掛けていた階から立ち上がれば、同じように庭に背を向けた九郎は将臣から瓶子と盃を奪い、 薄く笑いながらこう言った。
「……眠れそうか?」
「ああ。さんきゅ」
 言外に含まれた意に気付いて将臣は苦笑した。酒器を戻しに行った九郎とは反対へ足を向け、 寝所へと戻りながら思う。彼は意外なことに他人に対して結構敏感らしい、と。
 戸の前で、自然と欠伸が出そうになるのを噛み殺した。

















061224.
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