ドロウ・アワ・ライフ








 授業中の廊下は静かだ。その当たり前の静寂を自分の靴音が掻き消してゆく。 一歩進む毎に静寂は後方へと流れ、再び緊張感すら孕んだ静けさを取り戻す。 堂々とサボりを敢行する身なれどその静寂は少しも痛くない。
 階段を降りる。地下にある目的地に進む程、独特の匂いが鼻につき始める。 扉を開ければ部屋中に充満していた古びたオイルと絵の具と、キツめの煙草が混ざった匂いがして最悪。 この部屋の換気は専ら自分の仕事。部屋の主はきっと奥の準備室にあるやたらと上質なソファで眠りこけているに違いない。
 覗き込めば予想通り、乱れたワイシャツとスラックスに身を包んだ小汚い男が一人。
「……コラ。なんか失礼なこと考えただろ、今」
 いやいやそんなこと。ちっともありませんけど?そう思いながら綺麗な微笑を浮かべて返してやる。返事に欠伸ひとつ。
「オーラ、ティキせんせい?」
「暇そうだな、学生」
「せんせも暇そうだね」
「ばーか。今構想を練ってるんだよ」
 ギッとスプリングの音を立ててティキは上体だけ起こすと、 ソファの前に立つラビの腰に腕を回しそのまま再びソファへ倒れ込んだ。 必然的にラビの躰はティキの上に乗っかってしまった。これはまずい。下手すると昼から啼かされることになってしまう!
「ティキ!」
「今は眠いんだ、寝かせろ」
「勝手さー」
 頬を左右に引っ張ってやるとようやくティキは瞼を持ち上げた。気怠そうに髪を掻き上げると一転、 にやりと意地の悪そうな笑みを口の端に浮かべた。あ、嫌な予感。
「なに?ラビちゃん欲求不満?」
「違う!」
「強く否定するところがまた、」
「ばか、アンタは小学生か!」
 ティキの額を手刀で強く打てばようやく腰に回された(どころか既にシャツの裾から侵入を果たしていた)腕の力が緩んだ。 その隙にするりと抜け出て再びソファの前に仁王立ち。そして本来の目的を高らかと宣言してやる。
「この前の続き見に来たんさ!」
「ああ、あれか。もう終わったけど?」
「え。早っ。つか何ソレ、えー、つまんない」
「見たいなら乾燥室行ってくれ。オレは眠い」
 彼は言うなり此方に背を向けて丸くなってしまった。 なんとなく面白くなくて暫くは憮然とした表情を浮かべたまま突っ立っていたが、 一向に意識を向けてくれないだろうことが判ってしまって、仕方なく乾燥室へ靴先を向けた。
 準備室から乾燥室に直結するドアに施錠がされていないことを確認して、軋むそれを勢いよく引いた。 途端に準備室よりも濃厚な油の匂いが広がる。少しだけ眉を顰めて足を踏み入れた。
 ひんやりとした暗闇の空間を進みながら新しいキャンバスを探す。 此処には毎日のように来ている上、ラビ自身の記憶力が抜群に優れているお陰でその作業にさほど時間は掛からなかった。 一際奥まった場所に無造作に陳列されたキャンバスの一つを抜き取る。 そこで初めて傍のパネルに触れて乾燥室の明かりを点けた。
 淡い電灯に照らされて浮かび上がる湖を、ラビは陶然と見つめた。
見た目はあんなでも、絵だけは素晴らしいものを描くのだ、あの男は。 下地作りまでは隣で眺めていたその絵の完成形に感嘆の溜息を吐いて、ああ最初はこれに惚れていたんだったと思い出した。 いつの間に、彼自身に執着するようになったのだろう。
「まだ乾いてないから触るなよ」
「……っ!!」
 肩を強張らせながらさっと振り向けば、癖のある乱れた髪を一つに括って先程よりは整った体のティキが立っていた。 目を見開いたまま固まっているラビの手からキャンバスを離すとやはり無造作に元の場所に戻した。
「驚きすぎ」
「だ、だって……びっくりしたさ。急に話しかける、から」
「暫く後ろに居たんだけどな。つか、見過ぎ。そんなにオレの絵、好き?」
 どきりと心臓が跳ねる。顔が熱くなる。誤魔化しは利かないと知って、ラビは素直に頷いた。
 その様を見て満足げに笑んだティキは表情を意地の悪そうなそれに変えて、再び顔を近づけてきた。
「ふうん。じゃあ、オレは?」
「……言わなきゃ駄目さ……?」
「うん。言って」
「―――っ、……、」
 ごくりと一度唾を飲み込んで、一度目を瞑って、一度短く息を吐いて、ティキの頬に手を添えた。 綺麗な色の瞳を見つめて、一つ呟く。
「好き」
 そして、キスをしてやった。

















(でもこれが初ちゅーとかはじめての告白とかではないんですよー)

061009.
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