「隊長、失礼しま―――」
そこで呼びかけの言葉を切ったのは、シュンと軽い音を立ててスライドしたドアの向こうに居た人が、有り得ない人だったから。
ここにいては行けない人でもあるけれど、そもそもここには居ないはずの人。
顔も、功績も有名なその人は、唇に軽く人差し指を立ててシホの方を向いていた。
たいせつなひと
その人の座っているソファに横たわる白い軍服を着た人影に、ああと納得をした。
先程より幾分か潜めた声で、濃紺の髪を持つ青年に声を掛けた。
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
「所用でこの近くまで来たから、軽くハッキングをかけて」
「……何度も言いますが、それは犯罪です」
アスラン・ザラはその言葉に対し、何も言わずにこりと微笑んだ。
その笑顔にシホは溜息を吐く。もう既に数度繰り返されている会話の中で、諦めるということを学んだのだ。
最初の頃は、オーブの民間人である彼が簡単にザフトの施設に入り込むとはどういうことだと頭を抱えたものだったが、
そのシホの目の前で、アスランはザフトの警備システムに事も無げに侵入してみせた。
そうして彼がアカデミーの大抵のレコードを持っているのだと思い出させられた。アカデミーでは情報処理の一環として、
ハッキングスキルも当然のように身につけさせられる。
勿論その分野においてレコードを持っているということはそれ相応の技術を持っているということ。
成る程ザフトのシステムならば簡単に侵入できるのだろう。
そう考えたら追い払うのも面倒になった。第一この部屋の主が追い払おうとしないのだから、それに従わない理由が無い。
「大体、プラントを追放された貴方がプラントで所用とは何事ですか?」
「バイトだよ。知り合いなんだ」
アスランは軽く肩を竦めた。
如何にも嘘ですと言わんばかりの台詞に、溜息を吐く。その台詞が何処まで本当なのか知る術をシホは持っていなかった。
どちらにしろ結局シホには関係ないことだったが。
「いつから此方に?」
「少し前かな」
彼は時計を確認するように室内を見回す。暗くてなのか場所が悪かったのか、見付からなかったらしく首を傾げたようだった。
少し前にシホが隊長室へ書類を引き取りに行ったときアスランは居なかった。本当に少し前にここへ来たのだろう。
そして、シホが来たときイザークはまだ眠っていなかったどころか、また眠れないのだと愚痴をこぼしてすらいたのだ。
寝るはずがない。
ちらりとソファに目を遣って、彼はこの人の前ではすぐに寝付くことが出来るのだと悟る。
それは自分の力は及ばないのだと見せつけられるようで、少し悔しかった。
シホが唇を噛み締めたことに気付いたのか、同じようにソファを見ながらアスランは言う。
「勝手に寝かせてしまってすまない。疲れてたみたいだったから」
「三日前から睡眠をとられておりませんでした」
「……道理で凄く眠そうだったわけだ」
部下の前では例え体調が悪くとも凛としている彼は、やはりこの男の前では弱音を吐くのだと知る。
頼りにされていないと思っているわけじゃないが悔しいものは悔しい。思わず眉が寄ったのは仕方がない。
その所作にも気付いたらしくアスランは微苦笑を浮かべた。
「それは、君の所為じゃないだろう?」
優しく諭すような声音に少し苛立つ。知ってる。貴方が居ない間ずっと側にいたのは誰だと思っているのか。
ムッとして、少し口調に棘が混じってしまった。
「知っています」
「……イザークの表情を読みとるのは難しいから……俺も最初は駄目だった」
「しかし……もう、二年になるんです」
先の戦争の終盤で部下になってから、二年以上経った。
アカデミーで知り合ったというアスランとイザークの、その頃までの長さとほぼ一緒であるはずなのに。
頼りにされてないわけではないのだと、解っているのだけれど。
「俺の場合は同僚だったから。常に一緒だったし」
「部下には、弱音は吐けないと思っていらっしゃるのでしょうか」
「まあ……プライドの塊だからね」
懐かしんでいるのか目を細めてイザークを見つめる彼の目は、とても優しい光を帯びている。
辛うじて聞き取れる程度の寝息を立てるイザークの方も、酷くリラックスした様子だ。
それは絶対の信頼としてシホの目には輝かしく映る。シホにとってそれがイザークとの理想の関係だから。
「でも意外に頼りにされてるんだ」
「え?」
「とても判りにくいけれど」
最後の言葉はとても小さく聞きづらかったが、シホの耳にちゃんと届いた。
どう言葉を返して良いか分からず口を閉ざしていると、ソファに横たわっていたイザークが身じろぎをした。
あっ、と声をあげそうになったが、最初と同じポーズをしたアスランを認めて口を押さえる。
しかしその瞬間、手に持っていた書類がばさりと音を立てて落ちた。
しまったと思ったときには既に、イザークはソファの上で上半身を起こして気怠げに前髪を掻き上げていた。
「……どれくらい寝ていた」
「おはようイザーク。二十分も寝てないよ」
「そうか……」
イザークは緩慢な動作で上掛けに使っていたらしい上着を手に取って立ち上がった。アスランが側にあったパネルで操作すると、
ようやく室内に灯りがともった。暗がりに慣れた目には少し眩しかった。
するとそこでようやくシホを認識したらしいイザークが、軽く目を見開いて立ち止まった。
「シホ?」
「あっ……はい……すみません……」
「は?」
慌てて書類を拾いデスクに置いた。
「ああ。いや、すまない」
「いえ……えっと……こちらとこちらは目を通してありますので、サインだけお願いします。
これは一週間後に行われる演習のプログラムや当日の配置などの説明書です」
「この書類はいつまでだ?」
「明日の1000に取りに参ります。それまでにはサインを、」
「分かった」
しばらく書類の束をぱらぱらと捲ってから、ペンを取り上げた。
さらさらと淀みなくサインを書き込み始めたイザークを見て、内心溜息を吐きながらも完璧な敬礼をした。
「それでは失礼します」
そして敬礼を解いてからアスランに向かって頭を下げた。
「ああ……シホ」
「はい」
センサーに反応してドアが開く。しかしイザークに呼び止められて足を止めた。
振り返り彼を見ると、薄青の瞳がこちらを捉えていた。逡巡していたのか、少し間が空いてから言葉が続いた。
「―――いつもすまない、助かっている。ありがとう」
イザークの、酷く珍しい謝辞に戸惑い、思わず対応が遅れた。
「え、あ、いや……これが仕事ですので」
「これからも、よろしく頼む」
起き抜けで機嫌でも良かったのか、これまた珍しい微笑が返ってくる。
やはり戸惑うが、それ以上に舞い上がっていた。
「はっ!」
そして完璧だと思っていた先程の敬礼よりも完璧な敬礼をしてみせた。それがシホに出来る精一杯の誠意の返し方だった。
シホの様子に満足げに笑んだイザークは、すぐに目線を書類に落としてサインの続きを始めた。
ドアが軽い空気音を立てて開いた。ひんやりとした空気を孕む廊下に踏み出すと、ドアが閉まった。
最後にドアの前でもう一度敬礼して、部屋の前から立ち去った。
これだから貴方の元を離れられないのだ、とシホは思う。
きっとこれからも変わらず彼のために戦ってみせようと密かに、自分に誓った。
060504.
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