「録センパーイ」
「朱牡丹先輩って呼べ!」
何が違ったのか、その瞬間には感知出来ない。
飴
グラウンドの向こう側から歩いてきた御柳は、そうやっていつも俺を名前で呼ぶ。
大抵は部活の終わったグラウンド。廊下ですれ違ってからかわれるとき。――ふと目があった瞬間。
言葉では拒絶してても、本当は嫌いじゃなかった。その声で、呼ばれる事が。
只そう呼ばれるときは決まって自分にとって良くないことが起こるから、だから表面上では拒絶する。
今日だってそうで、相変わらずへらへら笑って同じように口を開いた。
「別に良いじゃないっスか、減るモンじゃないし」
「ミヤに呼ばれると減るんだよ」
不機嫌をそのまま言葉にしたように刺々しい口調で答える。
通じて欲しいと思いつつ。
「あれ、それって」
しかし一瞬言葉を切った彼は、にやりと笑みを浮かべて文を繋げる。
どうやら俺の願いは通じなかったらしい。
ついでに悪い予感。御柳が悪戯しようとしたときに決まって浮かべる類の笑みだから。
「俺のこと気になるってコトっしょ?当たり?」
予感的中。
そしてやっぱり予想通り俺はうっかりその挑発に乗ってしまう。
「っ…ふざけんな!」
勢いに任せ殴りかかればあっさりとかわされる。
いつもと同じ。まるで掠りもしない。
「ちゃんと牛乳飲んでます?」
「うっさいな!牛乳じゃなくても背は伸びる気!」
また一発、簡単にかわされた。
ムカつく。今日は一段とムカつく。
――たまたま、虫の居所が悪かったんだろう。
「あのさぁ…」
もしかしたら、互いに。
「分かってよ…ミヤと喋ってると本当にイライラするんだよ…あっち行って欲し気なんだけど。」
数瞬の空白、他人には感知できないような些細な、ブランク。
けれどもその一瞬の間が、いつもとは違うことを、本人達に伝える。
「――ミヤ?」
「…、分かったって…もう録センパイって呼ばないっスから」
「え、」
「じゃ、また明日〜」
何も無かったようにあいさつを残しながら部室のドアを開けた御柳の声はいつも通りで。
だから冗談かと思った。いつもなら本当に冗談だったから。
けれど心の奥底では分かっていたのかもしれない。
数瞬の異変、合間を繋げるそのぎこちなさ。些細な、ブランク。
御柳はそれ以来律儀に俺のことを朱牡丹先輩、と呼ぶ。
「オハヨウゴザイマース朱牡丹先輩ッ」
『おはよ、録センパイ』
名前を呼ばれるたびに感じる違和感が、勝手に記憶を引きずり出す。
それ以外はいたって普通に接してくる御柳に違和感を、感じる。
何故か息苦しかった。
これは自分で起こしたことなのに、何で、息苦しくなる必要がある?
「…おはよ…」
そして会話が終わる。
御柳は、呼称を変えたときから俺に構わなくなった。
だから会話が続かない。
只ひたすらに、イライラする。
風の強い日だった。
どうにかしてこの感情から逃れたくて、意味もなく屋上に居座っていた。
「あれ、朱牡丹先輩も屋上でサボり?」
「―――…ッ」
聞き慣れた声に、びくりと肩を震わせ反応する。
振り向かなくても誰か分かる。
今までだったらその声音にちょっとした安心感があったはずなのに。
いまはひたすらに、イライラする。
「あー…もしかして、俺邪魔ッスか?」
珍しく声を掛けてきた彼は、やはり数瞬出来る空白に、また、距離を置こうとする。
そんなことない。
すぐにそう言ってやりたいのに、つまらない意地のようなものを張ってしまうから。
「…みたいっすね」
(違う)
ほら、言わんこっちゃない。
違うんだ違うんだ、待ってよ、違うんだ。
「じゃ、俺やっぱ違うトコ行くんで…ま」
「ミヤ、」
御柳の言葉を遮って放つ。一言が場を支配する――沈黙。
あいつは扉に手を掛けている。いつでも出ていける場所に居る。
イライラ、してた。
「ミヤ」
「何スか朱牡丹せんぱ」
「だから…ッ!」
イライラ、イライラ。
原因は分かっている。俺が一方的に苛ついているだけ。だから悪いのも俺。
だけど。
「イライラする気なんだよ!ソレ!」
「それって…どれッスか?」
「分からず屋!馬鹿!」
ようやく振り向いて、但し口から漏れ出たのは、真っ白の頭で思いつく限りの悪口雑言。
――意地っ張りな俺には少し勇気が足りないから。
驚く御柳の元まで走り寄って胸ぐらをぐいと掴む。
走った際に落ちたキャスケットが視界に入るが放ったままで。
掴んだその手に力を入れて、引き寄せて、
「…ッ…」
「仕方ないから録センパイって呼ばせてやる!」
更に驚いた顔を浮かべた彼の胸元に頭を押しつけた。
一度大きく深呼吸する。
「え…はぁ…?」
「分かったらもう朱牡丹先輩とか呼ぶな!…イライラするっ」
ふ、と息を吐く音が聞こえた後、ふわりと抱きしめられた。
それほど離れていた訳ではないのに懐かしい感触に、不覚にも涙が出そうだった。
「あー…センパイ、俺…自惚れても良いッスか?」
「勝手、に、すれば」
「じゃあそうします」
ぎゅう、と苦しくなるくらいに抱き込まれた。
苦しかったのは胸の方だったかもしれないけれど。
「…録センパイ」
一度だけ、小さな声で確認するように呼ばれたのは、きっとこいつの精一杯の優しさだと思う。
―――数瞬のブランクは、まだ知覚できる空白を保っている。
041004.
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