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1.月光浴 (060611)
普段なら聞き逃していただろうその小さな音に気付いたのは恐らく偶々。
寝ている皆を起こさぬように細心の注意で閉められたろう障子戸は、本当に微かな音しか立てなかった。
思わず後を追ってしまったのは、薄らと開いた瞳で確認したその髪の色が橙色だったからだ。
その影は迷うことなく裏口から外へ出た。何事も正々堂々と立ち向かうのが性分の彼が裏口を使うというのは可笑しな気がした。
流石に夜中に忍ぶからには正門など以ての外だが、まるで結びつかない。
ふらふらと人の居ない通りを海に向かって歩く姿はとても無防備で、けれど歩み寄るには少し抵抗があった。
月の所為か欲目の所為かは判らぬが、どこか神秘的な雰囲気さえ漂っていた。
しかし浜に辿りつき躊躇いもなく波打ち際へ進む彼の姿を目にした瞬間、
その些細な抵抗感など感じる余裕もなく駆け寄って腕を掴み上げてしまった。
「ま、将臣!?」
振り返った九郎は相当驚いたのだろう、目を丸くして息を乱す将臣を見上げた。
「いや……なんでもねぇ」
不思議そうに小首を傾げる九郎にはっとして将臣は苦笑しながら答えた。
何を勘違いしたんだか、と誰に言うでもなく呟いて髪を掻き上げた。
「……勘違い?」
「あー、それはもういいって。ところで九郎何してんだ?」
強引に話を切り替えると彼は多少不服そうに眉を顰めたが、それには何も言わなかった。
「俺か?ただ風に当たりに来ただけだが」
「ああ、寝苦しいもんなぁ今日」
「将臣も風に当たりに来たのか?」
「……まあ、そんなもんだ」
少々言葉を濁しながら答える。九郎を尾けてきたとは流石に言わない。
会話が途切れ、波や風の音だけがこの場に響いた。それらは涼しげで、聴いていると躰の熱が攫われていくようだった。
湿気を孕んだ風もどこか心地良い。
「今夜は、満月か」
ふと空を見上げて九郎が呟いた。
同じように振り仰げば天頂には丸い月が架かっていた。幾筋かの雲が通り過ぎる度、砂浜から白い輝きが失われる。
上空は風が強いのか雲は速く、何度も月は隠れた。
「もう一月経ってたなんてな……気付かなかった」
龍神温泉で九郎と将臣が再開した日も満月だった。色々と寄り道した結果一月もこの熊野に滞在することになってしまったが、
それでも一月という時間は九郎にとっては短かったように感じた。彼の言葉からそれを酌み取った将臣も同意を示した。
「そうだな。思っていたより短かったな」
「明日……だな」
「―――俺と離れるのが淋しいか?」
嘆息する姿に、からかうように問うた。その台詞に、九郎は普段のように言い返す気持ちになれず、
思わず素直に首を縦に振っていた。すると将臣は一瞬驚いたように瞠目して、すぐに困ったように眉を寄せた。
「それも同じだ」
再び月が雲に隠れた瞬間、将臣は自分のそれを九郎の顔に近づけた。
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2.レクイエム (060611)
熊野へ舞い戻るための舟の上で響く微かな旋律に振り向けば、彼の人が歌を歌っていた。
彼が歌を歌うことにも瞠目したが、何よりこの時代で楽曲を奏でるようなメロディーで人が歌うことにも驚いた。
単純に興味が引かれて、彼に近寄った。
「……将臣?」
「珍しいな、そういうの」
止まった音色に残念だと軽く肩を竦めながら、九郎の隣に座った。
顔を見れば眉を寄せる様から、意味を測りかねているのだと気付いて言葉を足す。
「歌」
「ああ……俺も幼い頃に一度聴いたきりなんだが、ふとした折に思い出すんだ」
「そういや、子供の頃聴いたやつって何となく耳に残るんだよな」
「将臣もそうなのか?」
「ん、俺? いや……もう大して覚えてねぇな」
思い出そうとして早々に諦める。大抵の優しい記憶は思い出したいと願っても思い出せないものだ。
何か些細なきっかけがあって初めて沸き上がってくる。
船縁に凭れ掛かり、再び旋律を紡ぎだした九郎の横顔を眺めながら、浮かんできた言葉をそのまま口にした。
「まるでレクイエムだな」
「れく……?」
「鎮魂歌だ」
ふと一瞬遠くを見るような眼をして九郎は呟く。
「鎮魂……そう、かもしれんな」
そのつもりは無かったがそうなのだろうと言った彼が、今はもう見えない炎に巻かれた湊のことを言っているのだと気付く。
降り立った彼らを待ち受けていたのは、かつては味方だった兵たちが刀や弓を向ける様だった。逃げるために何人も斬った。
将だったとは言え優しすぎる彼は、それを気に病んでいたのか。
仕方ないとか、お前が気にする必要は無いとか、いくらでも慰めの言葉は浮かんできたが、
それはどれも今の九郎にかけるべき言葉では無くて、何も言えず口を噤む。
「―――、」
三度響くその鎮魂歌に柄にもなく泣きそうになって、九郎の手をそっと掴んで指を絡める。
将臣は一瞬海を視界に入れると祈るように瞼を伏せた。
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3.雪の降る朝 (060809)
平泉の冬は驚くほど早かった。
夜中からしんしんと降り続いた雪はあっという間に町を白く染め上げる。
「神子、来て!外が真っ白だよ!」
「わっほんとだ、雪!」
「ふふっ……本当ね。綺麗だわ」
「神子、外に行こう?もっと側で見たい」
「白龍!待って」
白龍と彼に手を引かれた望美が騒がしく庭へ駆け出していった。そのあとをゆっくり朔が追っていく。
ワン、という鳴き声に視線を移せば、いつのまにやら金が彼女たちの周りを走り回っていた。
その微笑ましい穏やかな風景に思わず笑みが零れる。
「おー。よく降ったな」
「将臣」
穏やかな足取りで九郎の元に歩み寄った将臣は白く輝く庭をしばらく眺めやった後、
九郎と同じように高欄にもたれ掛かり、人差し指と親指を使って輪を作ると揺らすように軽く振った。
「ちょうどいいから、雪見酒と洒落込まないか?」
「……まだ夜では」
「良いじゃねぇか、差し当たって急な用事は無いわけだし」
そう言うと何処に隠し持っていたのか徳利と猪口を取り出すと、簀子縁にどっかりと座り込んだ。
早速徳利を傾け酒を注ぐ様に呆れるように溜息を吐いてやった。
九郎には未だ将臣に対する躊躇が存在する。
平泉までの道中に振袖山であった諍いから気持ちを切り替えきることが出来ないでいるのだ。
何事もなかったかのように接する将臣に、以前と同じように馴れることが出来ないでいる。
しかし憎むべき敵将だと解って尚彼を想う心は消えない。京で熊野で過ごした記憶は褪せない。
元々気の合う相手だったからある程度なら蟠りがとけるのも早い。だから尚更居心地悪い。
そうしてそのままだらだらと昼過ぎまで飲み続けて。気づくと、将臣が落ちていた。
(珍しいな……)
脱力した躰は九郎より大きく重く担ぎ上げるのに些か苦しかったが、
どうにか空き部屋に辿りついて茵を準備しそこに将臣を寝かせた。
寝苦しそうにするから袷を緩めようと手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「あー……」
「起きた、のか」
将臣は僅かに身動ぐと気怠そうに髪を掻き上げた。一瞬思考が読まれたのかと思って九郎は焦るが、
気づいた様子も無く大きく息を吐く彼に胸を撫で下ろした。
「お前があの量で酔うとは思わなかった」
「いつもは酔わねぇ。今日は、何つーか……悪酔い?」
「悪酔い……」
首を捻るが原因になりそうなものが九郎に到底解るはずもなく押し黙る。
「さっきのさ、」
ぽつりと静かな部屋に言葉が落ちた。
「さっき?」
「振袖山の」
「……それはまた随分と前のことだな」
「あー……そっか。いや、夢見てた」
夢、と繰り返して九郎は心中で眉を顰める。平然としているように見えて将臣も、夢に見る程までに気にしていたのか。
或いは遠回しに出ていけという合図なのか。杞憂を胸に抱くが結果的にそれは徒労に終わる。将臣が口を開く。
「あん時言ったことって嘘じゃねぇんだけどさ、やっぱ、駄目だ」
(なにが)
何が、駄目なのか。やはり道連れのことか。
目を覆うように顔に載せていた腕をずらし、将臣は九郎に視線を合わせた。
「九郎義経は憎い。けど同じくらい、九郎が好きだ。何だろうな、平行線って言うんだろうなこういうの」
憎いけど愛おしい。愛憎は紙一重って言うもんな、と彼は眉を下げた。
普段ならそこで好きだとか言うなと九郎は照れるところだ。実際今だって赤いだろう、顔が熱いのが解る。
けれどもそれより重要で言わなくてはならないことがあるから、必死に抑えて言った。
「……解らなくは、無い。将として戦を平家を思う己と、個人としてお前を……恋う、俺の想いを、
比べるのは筋違いだ。土俵が違う。だから平行線で良いのだと、俺は思う」
女は名と命を天秤に置く。名声がそれほどに大事かと問う。だがそれは違う、と九郎は思うのだ。
それらは同時に在るべきものだ。戦に於いて名は命よりも大事だ。が、まず命が無くては名の意味は薄れる。
命があって名があって、名があるから命があるのだ。
愛しさと憎しみも同じだ。同時に在ればこそ、よりそれらは際立つ。
一息に言い終えて横たわる青年を見れば、意表を突かれたといった体で目を見開いていた。
「……九郎って時々年上みたいなこと言うよな」
「…………失礼な。俺は年上だろう」
そう返すと将臣は笑った。
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4.午後の陽だまり (060617)
珍しく暇な時間が出来た。突然訪れたそれを、やることが見つからなくて持て余していた。
「その上望美たちは所用で居ないとは……」
九郎は簀子縁を歩きながらどうしたものかと考える。
ぽっかりと空いた空白に丁度良いと思い立ち梶原邸を訪れたものの、彼女はおろか屋敷の主までもが出掛けてしまった後だった。
残っているのは家人だけだという。
白龍の神子である望美が外を出歩くとなると、八葉や白龍、対の神子は必ず同行する。各地に仕掛けられた呪詛を探すため、
一行は朝早くから町を歩く。そして今日九郎は、同行できない旨を認めた文を前もって届けさせていたから、
当然彼らが来ない九郎を待っているわけがない。中途半端な時間に来た自分が悪いのだ。
とは言え、今更仲間を追うことも六条堀川の屋敷に戻るのも気が進まない。
既に陽は高く上り詰め、地面に残る影は酷く短い。冷たくなりかけた風も今だけは心地よい涼風に変わる。そんな時刻だ。
(だからといって、唯呆けて待つというのも性に合わん)
しかし今急いてやらなければならない事柄は無い。時間は余っている。
(仕方ない。屋敷に戻って剣の稽古でも―――?)
通り過ぎた室の中に見慣れた姿を見たような気がして、引き返す。
仲間たちは全員出払ったと家人に聞いていたから知っている者が居る筈が無いのだが、と首を傾げつつ室内を覗き込んで。
「……将臣……」
奥の方で此方に背を向けて寝転がっているのは、間違えようもなく九郎の対の有川将臣の姿だった。
彼が着ているのはいつもの仰々しい陣羽織では無く紅い腰布を巻いた普段着だったから、
神子に一度同行し一人だけ途中で戻ってきたというわけでは無いようだ。つまり最初からこの屋敷を出ていないということ。
それを悟って九郎は溜息を吐いた。将臣らしいといえばそうなのかもしれないが。
熟睡している様子に起こすのも憚られて、音を立てないよう静かに彼の傍に寄って膝をついた。
顔を覗き込もうと上体を動かした瞬間、ふわりと香の薫りが漂ってきた。どうやら将臣の服に焚き染められているものらしい。
(高そうな匂いだ)
九郎も香の知識に富んでいるわけではないが、多少は心得ている。上品で柔らかいそれは、
市に並べられているような品では無くもっと高級な、それこそ貴族が好んで纏うような香だ。
恐らく世話になっている屋敷で使っている香なのだろう。
優雅さを与えるこの香の印象に、将臣は合わない。しかし今漂ってくる薫りは確かに彼のもので、
実際に目の当たりにしても違和感は全くなかった。どころか逆に香の印象の方が変わってしまったような気がする。
それは何処か温かい、陽溜まりのような薫り。
「ん……」
人の気配を感じたのかもぞりと将臣が身動ぐ。風の心地よさにうつらうつらとし始めた九郎もそれには気付いたが、
やはり襲い来る眠気には逆らえなかった。入れ替わるように今度は九郎が寝息を立て始める。
「……あ?九郎?」
目覚めた将臣は、傍で九郎が眠り込んでいるのを見て首を傾げた。
「何でここに居るんだ?」
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5.閉ざされた瞳 (060617)
からりと音を立てて戸が開く。
月明かりが入り込まないよう細く開かれたそこからするりと出た。
弁慶は一瞬中を窺い見ると、初めと同じように音を立てず戸を閉めた。
「……で?怪我の具合は」
「見た目ほど酷くはありません。景時が上手く外してくれたのでしょう」
「そうか」
戸の脇で腕を組み壁に凭れかかっていた将臣は、会話が終わっても立ち去ろうとしない。
じっと遠くの空を見つめたままだ。彼の意図が解って弁慶はひとつ溜息を吐くと、すれ違いざまに彼に告げた。
「やっと眠ったばかりなので、眠りを妨げないという条件なら、どうぞ」
「ああ」
返事をすれど将臣は動かなかった。弁慶はもう一度息を吐いてその場から立ち去った。
弁慶の姿が見えなくなってからようやく将臣は壁から背を離す。静かに戸を引いて中に滑り込んだ。
塗籠のように四方を木の壁で囲まれた室内で九郎が小さな寝息を立てて眠っていた。
閉じていない戸越しに差し込む月明かりに照らされて、顔色は僅かに青い。
衾をどければ恐らくその体には痛々しく布が巻かれているだろう。あの時壇ノ浦で負った傷に、
この平泉に来て漸くまともな治療を施すことが出来たのだ。
その光景を思い出すと、今でも肝が冷える。
向けられた銃口の先に無防備に立つ九郎。気付いた瞬間反射的に叫ぼうとして、しかしそれよりも早く引き金は引かれた。
思わず呪ったのは、命令を下した頼朝でも実行した景時でも神―――龍神でもない。それを引き起こす前に元凶を倒せず、
また見えていたにも関わらず九郎に注意を促すことすら出来なかった、自分だ。
彼の瞳を閉ざしてしまった自分が、目を覚ましてほしいと願うのは間違いなのかもしれないと思えど願いは変わらない。
このまま永遠に目を覚まさないのではないかという不安に、衝動的に彼の目蓋に口づけていた。
「…………、」
小さく呟いた言葉は誰に届くことなく消えてしまう。
彼の瞳は未だ閉ざされたままだ。
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6.祈り (060702)
1
まただ、と思った。
「悪い弁慶、少し外を回ってくる」
「もう遅いですから早めに戻ってくださいね」
そんな弁慶の言葉を背に、野営を始めた一行から離れた。
火が木々で見えなくなるまで走る。最初は歩いていたのにいつの間にか全速力で駆けていた。
目についた大木の影で止まって、荒くなった息を整える。
将臣が「彼女」と話している姿を見ていたら、心の底から黒い何かがもやもやと沸き上がってくるのを感じた。
いつもではないが、彼が「彼女」に笑顔を向けている時に決まってこうなる。その都度逃げ出してきた。
九郎はこれが何か、解っていた。そしてこの感情を決して発露してはいけないのだとも。相手が男だからではない。
周りにはそういう趣向の者がたくさん居たし、九郎も偏見は持っていない。けれども違うのだ。
将臣は唯一「彼女」だけを想っているのだから。
「彼女」は聡くて強くて、しかし時折見せる無邪気さや優しさに九郎でさえ好意を持っている。
将臣の場合その上幼なじみなのだから、護ってやりたい大切な存在に決まっている。
彼の瞳は九郎の知らない色をしていたから。そして「彼女」も、将臣に向ける眼差しはいつも信頼で染まっているから。
そんな完璧な一対に、九郎は密かに憧れた。そうなることは決して無いのだと解って尚更。
(……また、だ)
ぐっと衝動を堪える。この想いが溢れてしまえば今の平穏は終わってしまうと悟ったから。
早くこの戦が終われば良いのに、と思う。平家の怨霊を全て倒して白龍が力をつければ、彼女たちは雲居の向こうへと帰る。
そうすれば必然的にこの想いは行き場所を無くし、昇華されるだろう。
将臣と「彼女」の未来を考えても、それは全て想像で終わらせることが出来る。
だからこの想いが溢れてしまう前に戦が終結すれば良いのに、と誰にでもなく祈るのだ。
2
ああまたか、と嘆息する。
沸き上がる暗い感情に耐えようと瞼を伏せた。
「……将臣くん? どこか具合でも悪いの?」
「別に普通だけど?」
「そう? なら、良いんだけどな……」
憂い顔の望美に苦笑を漏らしながら一言だけ謝辞を述べた。ありがとうという酷くシンプルでありふれた言葉は、
だからこそ万感の思いが込められていると思う。それが伝わったのだろう、望美も少し笑顔を浮かべる。
彼女が心配したように体調が悪かったのでは無い。先程の場所へ視線を戻せば、もうそこに「彼」は居なかった。
一人弁慶だけが、じっと検分するような瞳で見つめてくる。「彼」と話していた時の穏やかな瞳とはまるで違っている。
―――「彼」を同じような瞳で見つめる者は他にもたくさん居た。それを知る度に嫉妬に駆られるのだ。
最早条件反射のようになりつつあり、どうしようもない。
何度も溢れそうになる感情を堪えるのはいつも一苦労だ。
これを「彼」にぶつけてしまえば或いは楽になるのかもしれないと考えて、けれど直ぐさま否定する。
それをしてしまえば、確実に此処には居られないだろう。
賢い弁慶やリズヴァーンにそれとなく九郎と距離を離させられるに決まっているからだ。
そんな考えに可笑しくなって笑う。まず行動ありきの自分が、酷く慎重なことだと。
慎重というより臆病と言った方が正しいのかも知れないが。
何れにしろ目の前の「彼」に手を伸ばせないでいることには変わりがなく。
(今は、まだだ)
還内府として平家を率いている今はまだ駄目だ。源氏との戦に勝ち安息の地を手に入れるまでは、
他のことにかまけている暇は無い。だから早くこの戦が終わればいい。終わらせてみせるのだと誓うのだ。
神に祈ることはしない。自分のこの手で掴み取ると決めているから。
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7.遙かな虚空 (060812)
光の消えた虚空に手を伸ばす。
今の今まで隣にいてどんな時でも確かに繋がっているのだと感じた存在は、もう虚空の向こうへ消えてしまった。
半身をもがれたような空虚さに気づいたがそれを取り戻す術も無いことに、瞑目した。
もうこの世界の何処を捜しても彼は居ないのだ。
蝉時雨が煩い。ぼんやりと夢と現の狭間を彷徨っていた意識が急速に浮上していく中でそう感じた。
季節は夏も盛り。蝉は豪雨だろうが颶風だろうが構わずに忙しく鳴くのだから、
ましてや晴天となれば勢いは激しくなるばかりだ。日向でもどこか涼しげな風の通るこの土地でも、それは変わらない。
ただいつもならば気にならないそれが、今日はやけに耳についた。途絶えない音は頭痛さえ伴うようで喧しくて仕方がない。
唐突に、あれらの木々に雷が落ちれば蝉も焦げて死ぬだろうかと考えて、思わず立ち上がった。
階を降りる足を止めたのは手を遣った腰に刀を差していないことに気づいたのと、
己が既に八葉の任を解かれて半年以上も経つのだと思い出したから。
嗚呼この手にその力は無いのか、と絶望にも似た気持ちで掌を見つめた。
「九郎」
微かな音を立てる簀子と衣擦れの音に、聞き慣れた声音が混じる。誰と問わずとも声の持ち主を知っているから、
言葉を返さずに顔だけを彼の居る方向へ向けた。果たして思い通りの顔が現れたがやはり九郎は何の反応も返さなかった。
「よく眠れましたか」
「……俺は、眠っていたのか」
「ええ。久しぶりに君の寝顔を見ましたよ」
ふふ、と最後に声を洩らして笑った弁慶の言葉は、単に九郎を揶揄しているのでは無く額面通りの意味だ。ここ数日、
言ってしまうなら数ヶ月前からその兆候は現れていたが特に顕著になってきたのは最近で、ずっと九郎は眠っていなかった。
加えて食も細くなり日課にしていた剣の修行さえも怠って、朝も夜も唯ずっと室内や簀子縁に何をするでもなく座っている。
先程のように唐突に行動を始めることも稀ではなかった。
「どれくらい」
「一刻ほどです。でもよく眠っているようでしたから」
そうか、と呟いて九郎は額に貼りついた前髪を掻き上げた。汗ばんだその顔が微かに青白いことに気づいて弁慶は声を掛ける。
「躰が冷えているんじゃないですか?温めた白湯でもどうです?」
「いや……要らない」
「そう言わずにさあ、中に入って」
口では渋っていても抵抗する気力も無いのか促されるまま九郎は室内に入る。その後を追った弁慶は密かに眉を顰めた。
九郎の病んでいる理由は様々だ。心酔していた兄に裏切られたこと、そして未だ追捕の名が下されていること、
逃げ込んだ平泉を一時的とは言え自分の所為で危険な目に遭わせたこと。それから最大の理由だろう、
互いに想い合っていた対の存在と時空を隔ててしまったこと。勿論それだけで腑抜けになるとは元源氏の総大将も名折れだが、
状況が状況だった。弁慶でさえあれは酷いと天高くの龍神を呪ったほどだ。
残ると決めたのか、時空を越えると決めたのかは訊いていなかったが、
彼らは確かに互いは共に在り続けるのだと誓い合ったことをその場に居た全員が知っていた。
それを、かの龍神は是としなかったのだ。人は在るべき場所に居なくてはいけないと言って。
為す術もなく引き離された瞬間の二人は、けれど我慢を覚えてしまった大人の顔をしていた。別れの言葉さえ、無かった。
もう一人のことは知らないが、九郎は最初の内は仕方ないと不器用に笑ってみせた。それが時間を経るほどおかしくなった。
今では感情を表すことすらしなくなった。無気力で無感動。
将としてそれで良いのかと不思議になるほど表情の良く変わった彼はもう何処にも居なかった。
「葉月は……将臣の生まれた月だな」
唐突に九郎が口にする。まるで禁忌のように弁慶が言葉に出来なかったその名前をいとも簡単に九郎は呼んだ。
らしくもなく肩を強張らせた弁慶を見て、本当に久しぶりに九郎は笑った。
口の端を上げるような微かなそれは苦いものではあったが。
「……そんな顔してくれるな。お前らしくもない」
「九郎に言われちゃ、僕もお終いですね」
同じように苦く笑う。懐かしむように目を眇めた九郎は静かに思い出を口にする。答えるように弁慶も言葉を返す。
「宴をしたな」
「そうですね。途中で君と彼は居なくなったから……皆、笑っていたんですよ」
「翌朝、揶揄われたんだ」
「ヒノエが筆頭で。僕も少し」
「星が綺麗だったんだ……二人で、見たくて」
「月も明るくなくて良い夜だった」
「……本当に、綺麗な……夜、だった」
嗚呼何で此処に居ないんだ、と悲痛な声で呟く九郎に弁慶の胸まで痛む。本当にどうして彼は居ないのか。
生まれた日だと言うのなら、此方の時空でも生まれてくれば良いのに。
らしくない願いだと知っていても尚そう思う。それほどの痛み。
為す術を持たないのは自分も同じなのだと息を洩らしながら、椀をきつく握り締める。
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7.遙かな虚空 リミックス (060812)
その日見た夢は奇妙な夢だった。
大分ご無沙汰ではあったが半年前までは頻繁にあった出来事だ、少々夢が奇妙だろうと驚くことは無かった。
唯その日は舞台が何処かの家の簀子縁で初めはその夢だと気づかなかった。理解したのは、
景色が離れて久しい遙か時空を越えた世界のものだと思い出してから。嗚呼懐かしいな、と思った。
「―――将臣?」
ドクリ、と心臓が跳ねた。無音の世界に響いたその音を、良く知っている。けれどそれは有り得ないことだろうと、
ハ、と浅く息を吐いて振り返る。そして簀子縁の向こう端から現れたのは、鳶色の長い髪を持つ、愛おしき対の姿。
俄には信じ難い光景に目を瞠ったまま、長いこと口にしなかったその名を呼んだ。
「く、ろ……う?」
「なんだ、その化け物を見るような目は」
ムッとした様子で眉を顰めるその表情も見知っている。表情ほど怒りを持っていない瞳も、低く心地よい馴染んだ声も、
背筋を伸ばしてきびきびと歩く仕草も、歩く動作にあわせてふわふわと靡く髪も、
白地に源氏の紋である笹竜胆が藍で染め抜かれた服だって、全部全部記憶のまま将臣が憶えているままの彼だ。
けれどもそれは、決して有り得ない逢瀬。
「だ……って、九郎、お前、」
「そう、だな。将臣が星の一族の力を継いでいたからといって、時空を隔てた俺たちが望美とお前のように夢で逢うことなど、
きっと出来ないのだろうな」
そう言って微かに笑う九郎の貌は確かに良く知っていたが、憶えているよりもずっと大人びている気がして困惑する。
それをきちんと読み取ったのか、九郎はまた笑って口を開いた。
「今日の将臣は、少し子供っぽい」
「あ?……悪いかよ。こっちじゃ俺は十七に戻ってんだよ」
「そんな形でも中身は十七か。成る程、それはまだ子供だな」
うっせ、と返しながら九郎の言葉で初めて自分の身形に気づいた。
それは煌びやかな紅の陣羽織で時空の向こう側で来ていた装束と寸分も違わず、
加えて首筋をくすぐる髪の感触にそれもまた向こうに居た頃と変わらない長さだと悟る。確かに器は二十一の将臣だが、
中身は十七のままだ。此方に戻ってきたときに培った四年の時間と経験は容姿と共に失ってしまったのか、
あの頃の冷静さが巧く思い出せない。変な焦燥感に駆られながら、実質五つも離れてしまった相手を見て目を眇めた。
「九郎は……変わんねぇな」
「そうだろうか?自分ではわからないが」
此処では変わらないのか、と安堵の息を吐く姿に眉を寄せた。言葉尻を捉えて訊ねる。
「此処?」
「ああ。色々、な」
「色々って何」
「詮無いことだ。それより、今日は何日だ?」
断言された上の話題変換に言葉を返すことが出来ず、渋々記憶を探り出した。大体、
今日とはいつのことを指しているんだろうか。それを問えばお前の世界だと返されて、先程探った答えを口に出した。
「八月……葉月の十二日か?何だよ」
「そうか、流れる時間は同じなんだな。あー……何と、言うんだったか」
「はあ?」
「ええと、はっぴー……ばーす、ばーす……でい、だったか?」
「……へ」
「違っただろうか?」
小首を傾げる九郎に呆然としたまま違わないが、と首を横に振った。ふわりと幼く笑った彼に、
時空を隔てていても膨らむばかりだった愛おしさが弾けそうになって顔を歪めた。
これは欲しかったけれど叶わなかった日常なのだ。
共に過ごそうと誓った言葉は世界や神や存在という絶対的なものに阻まれて果たされることは無くて。
いくら手を伸ばそうともその虚空は、彼のいる場所とは決して繋がることは無いのだ。伸ばした手は引き戻して握り締めるだけ。
掌には何も残らずに。
「―――将臣、まさおみ、」
「ん……?」
「見つけてみせる、から」
九郎は泣きそうな貌をして、そう言った。きっと自分も同じような表情をしているのだろう、
宥めるように彼は将臣の髪をくしゃりと撫でて言葉を続ける。その鳶色の瞳だけは真っ直ぐに此方を見つめていた。
「この縁を辿って将臣を見つけてみせよう。次の年はきっと一緒に祝おう、お前の」
生まれた日を、という言葉は将臣がキスをして封じた。何度も何度も啄むように、時折奪うように口づける。
彼の言葉ではっと気づかされたのだ。その台詞は常ならば将臣が言う筈の台詞で、
けれど今の塞ぎ込んでいた状態では欠片も思いつかなかった言葉だ。
思っていたよりも参っていたのだと知って内心苦笑を浮かべる。だからこの口づけは約束と誓いと決意の証。
もう一度出逢ったとき、元の自分で居られるように。
乱れた息を整えながら九郎の唇に親指を這わせた。
「次の年と言わず、今年見つけてやるって」
「せっかちだな」
「ん。余裕ないからな。子供だし」
くすりと笑い合った途端、暁の空に光が差し始めた。それが別れの合図だと悟って九郎の手を握る。
誓うように口づければどちらからともなく消えゆく互いの躰を抱き締めた。その夜初めて触れた温もりは確かに人の持つそれで。
嗚呼これは本物の躰なのかと思った。
「待ってろな」
「ああ。将臣こそ、待ってるんだぞ」
言葉だけを残して完全に世界から消えた九郎に聞こえないと知りつつ謝辞を述べた。
そうして現実に戻ってゆく意識の中、宝珠があった場所が熱くなるのを感じた。
虚空に手を伸ばせば、今度こそきっと掴んでくれる手を見つけられるだろう。
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8.深夜二時 (060702)
なかなか寝付くことが出来ずに何度も寝返りをうっていたがそれにも飽きて、ひとつ溜息を吐くと布団から這い出した。
凍えるほどではないじんわりと冷える冬の空気に、中途半端に暖まっていた躰が震える。この部屋では皆が慣れないから、
と空気の温度や湿り気を整えるものはつけていなかった。広間やこの家の兄弟の部屋では、頻繁に動いているようだが。
この世界は本当に便利なもので満ちあふれていると思う。
此処は九郎の生まれ育った世界とは違うのだと、この世界から来た少女たちが言っていた。
その言葉に彼女たちと出会った当初は疑っていたが、時空を越え実際目の当たりにして成る程違うというのも頷けた。
此処には九郎の知らないものがたくさんあって、それに未だ順応出来ずに居る。元の世界に帰りたいのだと言っているのではなく、
唯単に此処は九郎にとって異境の地なのだと驚くたびに改めて思い知らされるだけだ。
勿論眠れない理由はそれではない。枕が違うから寝られないというほど柔ではない。幼い頃そうだったとしても、
兵として戦場を飛び回っていれば否が応でも慣れるものだ。
察するに、原因は少しばかりの緊張感と焦燥感、それから大部分は久方ぶりの戦いによる―――高揚感。
此方に来てから久しく触れていなかった懐かしいあの場の空気に眩暈がしそうだった。
自分の在るべき場所に戻ってきたと、そう思った。
(俺は、戦場しか知らないから)
幼い頃からそう成るのだと育てられて、その通りに戦いに身を投じた。
或いはそうする以外に道が無かったのかもしれないが。それでも後悔はしていないし、性に合っていると自身思うのだ。
だが、と考えて目を閉じる。違う生き様を鮮烈に目に焼き付けてしまった。
当てもなく歩いていたら、庭に面する窓の前に居た。おもむろにそれを開くと、
室内とは比べものにならないくらい冷たい風が吹き込んできた。あまりの冷たさに肩を竦めると、遠慮がちな声を掛けられた。
「九郎?」
「ん……? ああ、起こしてしまったか?」
「いんや偶々だが、お前こそ何してんだ?」
「……少し眠れなくて」
九郎の言葉に僅かばかり眉を顰めた将臣は、そのまま九郎の傍に立つ。
この男は自分と似ているようでまるきり違うと思う。最初からその印象だけは変わらない。
自分のように幼い頃から一つの道しか指し示されていなかったとしても、この男は諾々とその道に従いはしないのだろう。
勿論それが自分の目的と違わないのなら話は別だろうが。
そして自分は、この男のそんな部分に惹かれているのだ。誰に仰ぐでもなく自分の意志を貫くそんな姿勢が好ましいと思う。
「やっぱ、慣れないか?」
「いや、そうでは無いんだ」
将臣の言葉にゆるりと首を振る。そうかと呟いた将臣はそれきり口を閉ざした。
もしかしたらこの男は眠れない理由に気付いているのかもしれないと不意に思った。
彼は九郎が量ることの出来ないほど深い考えを持っている。
時々、九郎は彼が途方もなく遠い処に居るのではないかと錯覚するほどに。
理由に気付いているのなら、彼も同じように戦場の雰囲気に高揚しているのだろうか。
彼も結局は三年半武人を務めていたのだし、その部分だけは九郎と同じなのだから。
同じだったら良いと思う。共有する感情は酷く味気ないが、等しい場所に立った互いにしか解らない心のざわめき。
同じだったら良いと思ってしまう。
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9.止まった時間 (060730)
コツリと靴音がひとつ響いて止まった。
黙って先頭を歩いていた赤髪の少年はわざとらしくくるりと振り向くと、殿の青年二人におどけたように問うた。
「さて分かれ道みたいだけど、どうするかい?」
少年の背後には言う通りに道が二つあった。一つは建物の中に続いているようで、先が薄暗く見通せない。
「本当は二組に別れた方が良いのだろうが……危険があるかも知れない」
「かと言ってこのまま四人でぞろぞろってのも効率悪いだろ?」
九郎は考え込むように口元に手を遣ると呟く。常識の通じない未知の領域に対する不安や危険がある。
二人ならば効率は良いがもし二人では対処できない事象が待っていたらどうか。
そう考えて、けれど将臣の言葉に顔触れを見回してそれも平気だろうかと思い直す。
何せこの場にいるのは熊野の頭領に源氏の神子と総大将に還内府という肩書きだけは豪華な人間たちだ。
同時に、白龍の神子と八葉である。余程のことで無い限り対処は可能だろう。
「ならやはり別れるか」
戦を采配していた頃のようにきっぱり言い切ると、逡巡してから九郎は再び口を開く。
「組み合わせは……」
「おっと、オレは野郎とは御免だぜ」
「……分かった。望美とヒノエは向こう、俺と将臣がこっちだ」
こっち、と指した方を見ながら望美が不思議そうに首を傾げた。
「待ち合わせの時間とかは?」
「つったって時計は無ぇし、太陽も月も無いだろ」
そう言って肩を竦める将臣に望美は更に困惑を強めた表情を向ける。その意味を理解したヒノエがああと声を上げて説明した。
「太陽の位置で時刻を計るんだよ」
「そっか。そういえば無いね」
やっぱり此処は違う場所なんだね、と呟いた望美の声に頷きはせずとも皆同じ考えだった。
薄ぼんやりと光る虚空、果ての見えぬ回廊、生き物の気配の無い真白き迷宮。
勢いよく踏み込んだは良いがいっそ美しいほどの不気味さに足取りは重い。
「ま、じっとしてても仕方ないんだし、とりあえず動いておいた方が良いんじゃない?」
「同感だ。大体の感覚なら分かるだろう。半刻程でどうだ」
「もし、来なかったら?」
「もう四半刻だ。それでも駄目なら捜しに行こう」
「オーケイ。充分だろ―――と、言いたいところだが」
言葉の途中で声色を低くした将臣は、九郎がこっちと指した方を見据え、おもむろに太刀を構えた。
刹那の差で気付いた残りの三人も油断無くそれぞれの得物を構える。
「おいでなすったようだぜ」
その場の全員が感じたこの世界に在るはずの無かった懐かしきそれは、怨霊の気配だ。
迷宮の入り口で桜花精と戦った日から実に数日ぶりの遭遇である。しかし誰もが戦い方を忘れておらず、
特有の張りつめた空気は戦場と変わらない。ぞくりと背筋を這うその高揚感に九郎は身震いした。
(―――認めてはいけないだろうが)
怨霊を滅する役目を持つ龍神の神子の八葉であるはずの自分が、
怨霊との戦闘を心待ちにしていたなどと認めてはならないだろう。けれど、確かに、こうして感じる空気の変化が愛おしい。
待ち望んでいたのだ。
そしてちらりと横目に確認した対の男の姿に思わず瞑目した。
歓喜と哀切が綯い交ぜになって再度背筋を震わせる。この感情はきっと恋に似ているのだと強く思った。
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10.凍れる月 (060730)
空に浮かぶ寒月に白い息が掛かる。山颪の風が海風に変わったのだろう、まずいですねと弁慶がごちた。
確かにこれでは折角丘陵を陣取った意味がない。強い風に乗って矢が簡単に届いてしまう。
一瞬常に傍に居た比売神を思い出して、その考えに首を振った。同時に浮かんだ対の存在たる元敵将の姿も思考から追いやる。
彼等はもう此処には居ない。外ならぬ九郎が帰らせたからだ。
「来るぞ」
「はい先生」
短く九郎を促したリズヴァーンもまた、自らの得物を取り出し戦闘態勢を取る。
この場に残った八葉の仲間は弁慶の他に彼しか居なかった。ヒノエは熊野へ戻り同じような軍勢を前に戦っている。
譲はやはり望美たちと帰ったし、景時は未だ鎌倉の膝元にいるのだろう。
敦盛は役目を終えたからと帰る直前の白龍の神子に自ら封印された。当の龍神は龍の姿に戻り、
朔は九郎が景時のもとへ帰らせ此処にはいない。本当はリズヴァーンにも京へ帰って欲しかったが、彼は首を縦に振らなかった。
結局残ったのは、三人だけ。
それでも、行く宛のない九郎が唯一身を寄せられる大恩あるこの平泉を守るため、
奥州藤原氏の郎党に混ざってこうして剣を構えているのだ。例え勝ち目の見えない戦だとしても。
ひゅん、と空気を裂く軽い音を捉らえると、瞳に幾十もの火矢が飛んでくる様が映った。
同時に地響きのような鬨の声が周りから沸き上がった。
駆け降りる郎党に混ざって九郎も弁慶もリズヴァーンも戦場へ飛び出した。
いくつもの剣戟が響く。もう何人目か判らない源氏の兵を切り伏せた。
戦場を覆う血の芳香と肉を断つ感触に九郎は眉をしかめながら刀を握り直す。
柄に浴びてしまった反り血を拭う隙が無くどうしても指が滑ってしまうのを握力で押さえ込む。
指先が白くなるのが解っても緩めたら最後、こちらが隙をつかれて終わりだ。
「―――っ!」
突然の後方からの襲撃を躱して逆に切り込んだ。暗がりで見た襲撃者の顔をどこかで見たことがある気がして、
しかし深く考える間もなくそれがかつて率いていた兵の一人だと気付いた。泣きたいような気持ちになってとどめを刺せば、
一瞬の気の緩みに刀が滑り落ちた。
(しま……っ)
「九郎義経ぇ!覚悟っ!」
その絶好の機会を見逃すような兵が源氏に居るはずがなかった。優秀な殺人鬼たちは一呼吸さえも躊躇わず刀を振り下ろした。
(俺は此処で……)
死ぬのか、とどこか他人事のようにその光景を見ながら考えた。
最期まで瞼を閉じなかったのはただただ死が訪れる瞬間が判らないことへの恐怖だったのかも知れない。
魅入られるかのように白刃の軌跡を追って、
キン、
一際高い金属音と、その後ろ姿と、
「―――ヒーローは遅れて登場するもんだろ?」
不適な笑みに。一人増えたところで大局が変わるとも思えないのに、
彼が居るというだけでなんとかなるような気がした。居るはずのない彼の姿に何故だか涙が出そうになった。