約束の夜(070505)
その日はとても酷い雨だったのを覚えている。
陽が落ちてすぐ、大きな音を立てて開いた木戸からずぶ濡れの男が倒れ込んで来た。
彼の帰りを今か今かと待っていたメイドたちが慌ててタオルを掴み駆け寄る。
一人がお帰りなさいませと声を掛けようと口を開いたとき、男のマントやタイから流れ落ちる水滴に朱が混じっているのを、
薄暗い玄関口で確かに見た。彼女は目を瞠ってさっと青ざめる。
「御主人様……!傷の手当てを!」
「大した傷じゃ無い。……それよりドイツは何処にいる?」
やんわりと彼女を押し止めるように片手を上げた男はそのままゆるゆると立ち上がった。ですが、
と言い募るメイドを遮って初老のメイド長が彼の問いに答える。
「ドイツ様でしたら二階にいらっしゃいます。お呼びしますか」
「良い。言うな」
一辺の迷いすらなく即答した主人に、男の心情をよく理解している彼女は何も言わずにただ深く息を吐いてみせ、
口を開いた。
「……それでしたら部屋にお戻りになられる前に、せめて入浴だけはなさって下さい。
そのままで館を歩き回られては掃除に困ります」
「はは、手厳しいな」
笑ったつもりなのだろう不器用に顔を歪めた男は、彼女の言い付け通りにのろのろとその場にマントと帽子を落とすと、
玄関口に近いバスルームへと足を踏み出した。
「……帰ってきたのか?プロイセン」
上方から聞こえた声に思わずといった体で男は舌打ちをした。家人皆が響く靴音に振り返れば、
階段の上から男とよく似た少年が小走りに降りてくる。そのまま歩を進めようか否か逡巡したのか、
ずぶ濡れの男の躰が一瞬、重心の移動で少しだけ揺れた。その一瞬の間に少年は彼の元に駆け寄り、
男が危惧した通りに、声を掛ける前にきつく眉根を寄せた。
「……お前、怪我しているのか?」
「掠り傷だ」
「掠り傷でそんなになるか!」
激昂した少年は、億劫そうにそう答えた男の腕を掴んで静観していたメイド長を振り返ると、
「俺がこいつの手当てをする」
「では至急お部屋に治療具を運ばせます」
彼女の言葉を最後まで聞くことなく階段をバタバタと駆け上がっていった。
静かな室内に雨音だけが響く。もう随分と慣れてしまった、目の前の男の躰に包帯を巻く作業を
ドイツは黙々と続ける。三巻あった包帯を使い切ったところで漸く手を止め、治療具の入った箱を閉じながら
いつの間にか詰めていた息を吐き出した。
「どうして……こんな怪我してくるんだ」
「大した怪我じゃ、」
「だからこれのどこが、大した怪我じゃなく見えるんだ」
そう指差して見せた彼の状態は、どう贔屓目に見ても「掠り傷」とは程遠いものだ。特に最初が酷かった。
何せ一番に目に飛び込んで来たのがシルクブラウスに滲むどす黒い赤だ。次いで床に溜まる紅。頬に走る一筋。
蓋を開けてみればそれ以上に酷い有様であったけれど、玄関口でプロイセンの姿を認めたとき、
確かにひやりとしたものが体中を走った。
「……お前が気にすることじゃない」
「だが、俺に関わることなんだろう?」
プロイセンは今度はヤーともナインとも言わず、首一つ動かしもしなかった。沈黙は是。
余計なことは沢山喋る癖に一番大事なことだけは内に秘めたがる彼にそれは特に顕著だ。
だが沈黙はそれ以外の情報をドイツに与えてくれはしない。この屋敷に軟禁状態のドイツに外界の情勢を知る術はない。
あまつさえメイドたちや屋敷に出入りする人間に訪ねてみても、箝口令が敷かれているのか答えてくれる者はいないのだ。
ただ解るのはプロイセンが大きな戦争をしていること、そして恐らくそれはドイツに深く関わる戦いだということ。
誰と戦っているかは知らされていない。幼い頃の、彼がまだ神聖ローマと呼ばれていた頃の記憶はドイツにはなく、
彼が直接知っている大人といえばプロイセンと家人しかいないから想像すら、つかない。
唯一の身近な大人であり、しかし決してドイツと外界の接触を許さない大人の、包帯の巻かれた胸元に軽く額をぶつけた。
「なんでこんなになってまで戦うんだ?」
その問いにプロイセンはすぐに答えなかった。黙って倒れ込むようにドイツの肩に顔を埋めると、
彼は一度ゆっくり息を吐いた。
それから。
「お前が欲しいからだ、ドイツ」
思わず、喉が鳴った。
その骨に響く、何もかもが混ざった、欲に満ちた声に。背中が震える。
「お前が、欲しい」
ぐっと強く苦しいほど抱き締められる。怪我に響くだろうが。そう言うつもりが、
男の冷えた躰が心地よく口を開けなかった。行き場のない腕を怖ず怖ずと背中に回すと、一層拘束は強くなる。
躰と反比例して熱い吐息がドイツの肩口に掛かった。
「お前を手に入れるための戦争だ。お前を守るための、お前を一つの国にするための戦争だ。
お前を手に入れるためなら……何だってするさ」
プロイセンは一息にそう言うと、絶対に負けられないのだと、零した。彼には珍しい弱々しい口調に、
それだけ彼が必死なのだと知ってドイツは胸が苦しくなる。痛いほどの想いに、自分はどれだけ応えられているだろうか。
だからきっとその言葉がついて出たのは必然だったのだ。
「俺に出来ることはないのか?」
「此処に居てくれるだけで充分だ」
「他にはないのか」
「……、あとは、此処で待っていてほしい」
「それだけか?」
「充分だ」
欲の少ない男だと笑おうとして、それを既に知っていたことに気付いてドイツは赤面する。コホン、
と誰に誤魔化すつもりもなかったが咳払いをして、口を開いた。
「待っててやるから絶対に帰ってこい。這ってでも、絶対に」
「ああ……絶対に、な」
本当は、敵も情勢も知っていたけれど。たまにこの家に遊びに来ていたイタリアが、
戦況も全て手紙で教えてくれていたから。今プロイセンが家中を敵に回していることも、
世間に報道されているよりずっとプロイセン側が優勢でないこともすべて。それでも何も知らない振りをして、
噛み付くようなキスをした。