触れることの叶わない貴方の体温に恋い焦がれる(070227)








 コツリ、と高い天井に靴音が反響した。それに躊躇うことなく再び硬質な音を響かせながら、 歴史の匂いが濃厚に染み付いた薄暗い廊下をゆっくりと歩む。
 屋敷の主の性格からか、建物自体の意匠は凝っている癖に途中覗く部屋に華美な家具はあまり置かれていない。 最もオーストリアがここに住んでいた短い間は彼自身が運び込んだ調度品できらびやかに飾られていたが。 しかしそれらの半分以上は今この地を分割管理している連合国側の人間に差し押さえられたと聞いた。 噂通り見馴れた部屋の見馴れたガラス棚に置かれていたはずのプリンツオイゲンのカップはそこになかった。
 突き当たりの重厚な扉にたどり着き、軽くノックして許可の出る前にそれを開いた。 廊下とは違う造りの大きな窓から眩しいくらいの太陽光が差し込むその部屋で、彼は気怠そうにソファに俯せていた。 オーストリアが一歩室内に足を踏み入れればようやくゆるゆると起き上がってこちらを視認する。
「……オーストリア」
「何です。その恰好は」
「ああ……少し、な」
 ドイツはそう苦く笑いながら、乱れて額にかかる前髪を掻き上げ後ろに撫で付けた。 まだワックスの残る髪は従順に手の動きに沿って纏まった。(潔癖な彼にはありえないことだというのに。)
 生真面目な彼はそれから紅茶でも入れよう、とふらふらと立ち上がりキッチンへ向かおうとしたが、 それをやんわりと押し止めてオーストリアは自ら器具を手にした。
「そんな状態の貴方に任せられませんよ」
「……すまない」
「構いませんが」
 言葉を切れば、ただ沈黙だけが落ちた。本当は少し彼のことを皮肉ろうと思っていてけれどやめた。 再びソファに沈み込んだ彼は一言も発することはなくオーストリアの立てる音だけがその場にあった。

 シンプルなカップに注がれたウィンナ・コーヒーを一口味わうとやはり美味いな、 とドイツは微かに笑みながら言った。当然だ、今日は彼のためにとびきり慎重に煎れたのだから。
「……聞いたぞ。永世中立国化が認められたんだろう?」
「ええ。近いうちに条約を結んでもらうことになったので、報告に」
「そうか。よかった」
(よいことなど、)
 よいことなどあるものかとオーストリアの胸中に渦巻く釈然としない思いに当然彼は気付かない。 永世中立を認める代わりに、二百年いやもっと前からの悲願だったドイツとの統一を永劫禁止されたのだ。 この苦渋に他でもない彼自身が何故解らない?
(解るわけがないけれど、)
「どうかしたのか、オーストリア?」
「……いいえ。貴方には詮無いことです」
 オーストリアとしてはそう長く考え込んでいたつもりはなかったが、 不自然に空いてしまったらしい間にドイツは気付いたようだった。 ひとつ微笑んで見せれば彼は若干不服そうにしながらもそうかと頷いた。 そしてシュトーレンを口にしながら溜息を吐いて、眠るように眼を閉じた。

 ―――解るわけがないのだ。神聖ローマの記憶を受け継がなかった彼には絶対に。この二百年の恋心など。