Un Sospiro
弾けない。
知らず、以前月森に止められたときのような乱暴な演奏をしていたことに気づいて、
大きく息を零してから香穂子は弓を下ろした。
昨日の放課後。唐突に、音楽の道を教えてくれた魔法のヴァイオリンは壊れてしまった。
急な展開に戸惑いが隠せない中、そのときはリリから新しいヴァイオリンを受け取って家に帰った。
そして今日、真新しいヴァイオリンを構えたとき、気づいた。違う。
兄弟だと言われてもやはりあのヴァイオリンとは違うのだと気づいた。途端、
ずっしりと思い何かがのしかかってきたことにも気づいた。それから音が思い通りに奏でられなくなった。
確かにリリが補助輪だと例えた魔法の効力が無くなった所為もあるだろう。だがそうじゃないのだ。もっと根本的な何かだ。
もし魔法が消えてもあのヴァイオリンは消えないままだったならきっとこんなにも苦しくは無かった。
(今日はもうだめかもしれない)
そう考えて香穂子はヴァイオリンをケースに戻した。鬱屈した気分を拭おうと思い切り窓を開けて肘を突く。
気分が乗らない状態で弾いても意味がないのだと教えてくれたのは一体誰だったろう。
(―――あ。)
ポーン、と。綺麗なAの音が響く。
アップライトの籠もった音ではなくグランドピアノの開放感のあるそれは、
窓を開け放した練習室で誰かが弾こうとしていることを教えてくれた。そしてCからオクターブ高いCを一度さらうと、
聴きなじみのある曲を奏でだした。黒鍵のエチュード。ああ、好きだな、と目を閉じた。
ミュゼット。トロイメライ。木枯らし。熱情。それから英雄ポロネーズを弾き終わると暫く間が空いた。
目を閉じて酔うように聴いていた香穂子は不思議に思い目を開いた。
すると図ったようにゆっくりと、アヴェマリアが始まった。
(ああ……)
それは初めて香穂子があのヴァイオリンで奏でた曲だった。音楽の楽しさとクラシック曲の美しさを教えてくれた曲。
ピアノの音色は続く。月森とも、香穂子とも違う解釈のそれ。彼はこう解釈するのか、と再び目を閉じる。
曲が終わる。いつの間にか流れていた涙を拭って、香穂子は立ち上がった。
手早くケースからヴァイオリンを取り出すと窓際で弓を引いた。アヴェマリア。
初めて貰った楽譜は何度も弾いて魔法がなくても自然と指が動くようになった。
初めて弾いたときの歓びを思い出しながら手を動かし続ける。
途中でピアノが加わったことに気づいて、一音一音を逃すまいと集中を強めた。
音が乗る。旋律が絡み合う。これでもう大丈夫だと、心がきちんとおさまるのを感じた。
このヴァイオリンのことも好きになれる。頑張ろうね、と呟いた。
061028(Un Sospiro/ためいき/リスト「3つの演奏会用練習曲」)
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