賽は投げられた








「待ちなさい。君、伴奏者は?」
 ざわり、とその一言で空気が変わった。それをきっかけに喧噪は会場中に伝播していったが、 依然としてその審査員と日野の間には重苦しい異質な沈黙が横たわっている。
 日野に何かが起きているのは明らかだった。彼女がステージに上がるまでの不自然なブランク、袖のざわめき、 靴を履いていない盛装姿、現れない伴奏者、そして彼女の表情。 セレクションまでの彼女の姿を知っているだけにもどかしさは募る。何が、起きている?
 彼が眉をひそめた瞬間、審査員が再び口を開いた。
「君の演奏は伴奏が必要なはずだ。そのような演奏は認められない」
(そんなこと、)
 どうでもいいだろうと、そう思いながら何かがぷつんと切れたような気がした。一瞬、 忌まわしきコンクールの記憶を思い出して躊躇しかけだが、 ステージ上で未だヴァイオリンを抱き締めて視線を床に這わせている日野を見た途端、自然と立ち上がって声を上げていた。
「―――伴奏なら、ここにいる」
 その言葉に、審査員も日野も例外なく会場の全員が彼に視線を向けたのがわかった。ごくりと一度喉を鳴らしてから、 審査員を睨み付けて再度告げる。
「伴奏があればいいんだな?」
 僅かに声を上げながら頷くのを確認して土浦はステージに向かう。 日野が目を瞠りながら(半ば困惑した表情で)見つめてくるのには苦笑を返した。すれ違いざま、ぽんとひとつ頭を叩く。
「日野の思ったようにやっていいから」
「え……でも」
「自由にやってくれて構わない」
(合わせてみせるから)
 誰にも告げることなく心の中でだけ静かに決意した。グランドピアノの前に座って一度日野と目を合わせれば、 彼女はその決意を汲んでくれたらしい、真剣な表情で頷くと客席に向かってヴァイオリンを構えた。
(絶対に、合わせてみせる)
 幸い彼女の弾く曲は暗譜しているが、伴奏版ではないし長年のブランクもある。指慣らしもしていない。 だが、演奏はきっと上手くいくだろうとまるで根拠のない自信に後押しされながら、鍵盤に触れた。

 この苛立ちや決意の理由は後になって理解することになるけれど。

















061024
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